読書

「幼い頃からのフッサールの人となりを示すつぎのような逸話がある。ある日、彼はナイフを土産にもらったことがあるが、切れ味があまりよくなかったので、一生懸命にこれを研ぎにかかった。ところがナイフを鋭くすることばかりに気をとられていた少年フッサールは、刃金の部分がだんだん小さくなり、ついには無くなってしまったことに気がつかなかった、というのである。この話は、フランスで現象学研究の先達として知られたエマニュエル・レヴィナスが、晩年の本人の口から聴いたものであるが、フッサールはこの幼時の思い出に象徴的意味を託していたようで、その話をするときは沈痛な様子であった、という。」(田島節夫『フッサール講談社学術文庫、p39-40)

フッサール (講談社学術文庫)

フッサール (講談社学術文庫)

「1939年第二次世界大戦の勃発とともにベルクソンは家族とともに田舎へ引きこもったが、1940年には占領下のパリへもどった。ナチの圧政は、とくにユダヤ系のベルクソンにとっては耐えがたいものがあったであろう。それはあたかも閉じられた擬似宗教の最悪のケース、その戯画的な悪夢ともいうべきものであった。これらかずかずの悲惨な出来事、あれほど多くの美しい予想を破壊し、物事のすがたをこれほど急速に、これほど荒々しく変えてしまったかずかずの事件を前にして、この広大で深遠な知性はどんな状態であむたろうか、とポール・ヴァレリーは問うている。ベルクソンは絶望しただろうか、それともわれわれ人類がしだいに高まってゆく条件に向かって進化するという信頼をもちつづけることができただろうか。いずれにせよ、とヴァレリーは言葉を継いでいる。疑いもなくベルクソンは、われわれがこうむっているもろもろの結果を生み出した全面的な惨事によって、心底ひどく傷つけられたことだろう、と。それかあらぬか、1940年の暮、ベルクソンは「私はあまりにも長く生きすぎた」とフロリス・ドラットルにもらしたという。パリの冬は凍りつくように寒く、石炭不足のため暖房は消えたままだった。リューマチによる硬直をやわらげるため医師に命じられた運動を廊下でしていたベルクソンは、風邪を引いて肺充血にかかり、三日のわずらいののち1941年1月4日に息を引きとった。」(市川浩ベルクソン講談社学術文庫、p103-104)

ベルクソン (講談社学術文庫)

ベルクソン (講談社学術文庫)