セロニアス・ヒムセルフ

深夜だし落ち着こうと思ってセロニアス・モンクの『セロニアス・ヒムセルフ』を掛けようとするが、CDラジカセが再生してくれず苦笑する。やむを得ずCDウォークマンで聴いている。昨晩は22時過ぎに寝て、2時前に起きたが、余りにも早起き過ぎる。どうも法律の規定で「○○に一票を」というのは昨日までしか許されないそうだが、「○○に死票を」「○○に軍票を」だったらいいのだろうか。

そんな下らないことはともかく昨日は新宿を散歩していたが、電車の中でカミュ『異邦人』(窪田啓作訳、新潮文庫)の冒頭のほうを読んでいた。もう一冊は正岡子規『仰臥漫録』(岩波文庫)だが、何となく渋い近現代文学に興味が向く。まあ一生読んでいて飽きないといったものばかりだが……。カミュの散文は褒め称えられるが、フローベールもそうだが、どうもフランス語で読まなければ分からないのではないかという気がしている。最近『ボヴァリー夫人』も再読したんだけどね。文学、小説、文章の問題は難しい。まあ僕は書くほうは全く文章は書けないわけですが。す

カミュのほうは僕は原文・原書を持っていないし、著作権の関係なのかネットにも原文はないようなので、とりあえず手持ちの翻訳しか読めないわけだが、「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない」という有名な書き出しから始まる。そして語り手の「私」は母親が入所していた養老院に向かうわけだね。これは1940年だが、このくらいの時期の《気分》についてしばし考えるが、例えば……。

《家にいたとき、ママンは黙って私を見守ることに、時を過ごした。養老院に来た最初の頃にはよく泣いた。が、それは習慣のせいだった。数ヶ月たつと、今後はもしママンを養老院から連れ戻したなら、泣いたろう。これもやっぱり習慣のせいだ。》

というような「習慣のせいだ」というような片付け方を非情とか冷たいと思うべきなのか? さて、どうでしょうかね。他方正岡子規の随筆は1901−1902年に書かれたものである。別に書かれた年代や時代が大事なわけでもないだろうが。僕が申し上げたいのは一つの態度のことである。

こういう話はこのくらいで切り上げるが、3.11以降……と皆さんは語る。僕は「逆の意味で」真実だと思う。ということでは、多くの人々に反対して申し上げなければならないのだが。意識の目覚め、覚醒、自覚などなかった。あったのは発狂だけだ。誰それの本性が垣間見えた。暴露された。ということもない。逆にそういうことを言い募る人々の正体がバレただけではないのか。頭がおかしいという。

一例を挙げよう。或る人だが、彼とどうして知り合いになったのかは忘れたが、気付けばFacebookで「友達」になっていた。その彼はことあるごとにうるさく「挨拶(poke)」を寄越すので心底困り果てていたが(うざったいし迷惑この上ないので)、最近それがなくなった。というか、よくあるパターンだが、去年の年末の衆院選の結果に絶望して沈黙したのである。

そしてそのまま永久に黙っていればよかったが、数日前彼が社会問題でFacebookを更新していて驚愕した。彼によれば、日本も世界もロックフェラーやロスチャイルドなど闇の陰謀勢力に動かされている。日曜日(本日だ)の参院選も、ムサシ不正選挙によって安倍晋三は笑いが止まらないのだという。

僕はそれを読んでこの人にとっての「政治」ってのはこういうもの、要するにただ単なる妄想なのだとよく分かった。3.11以降目覚めたと称する人々の全員ではなくても、かなりの割合としてこういう連中が混じってますよ。困ったことだ。はっきり申し上げて自民党のほうが正気であるぶん10000倍ましではないか。どうにかしてくれ。