いーぐるnote2012への投稿(件名:「こんばんは。」)

攝津さん、ご返事延び延びになったいますが、決して忘れたわけではありません。非常に重要なことなので、ゆっくりと考えているのです。今しばらくお待ちください。

後藤さん、お気になさらずゆっくり考えてください。私もあれこれ考えはしますが、どうも音楽やジャズそのものとは関係がないような哲学談義になりそうなので投稿を躊躇します。

ちょっと思うのですが、今朝、吉田秀和の『音楽 展望と批評』(朝日文庫)の2と3を再読してみて、クラシックさえも演奏という次元を考慮すれば、楽理だけで押し切ることもできないし、何か特定の哲学理論を使って明快に斬るというようなこともできないような気がしました。吉田秀和の書くものに特定の理論はないと思いますが、彼の発言が面白いしあれこれ示唆に富むというのは事実だと思います。

ジャズ批評でもそうであるような気がします。私は図書館でしか本を読みませんから、後藤さんの全ての著書を拝読したわけではありませんが(さすがに『ジャズ耳の鍛え方』は読みましたが)、ご著書の議論で、はてなダイアリーやcom-postでの議論のような、メルロ=ポンティフーコーか、というようなことは余り書かれていないように思います。

後藤さんとかmiyaさんらの話を私なりにジャズに繋がるかたちで言い直すとこうだと思います。我々の経験の限界はあるのだろうか、あるとすればどこにあるだろうか、ということです。ジャズの歴史を過去に遡るとしましょう。そうしますと、ルイ・アームストロングのホット5、ホット7のような1920年代の録音に行き当たります。それは、モダン・ジャズに慣れた耳からは聴き慣れない響きかもしれませんが、ちょっと頑張れば、理解できないこともないような気もします。けれどもそれで終わりではありません。林さんが研究されているようなアーリー・ジャズもあるでしょう。録音で辿ることができる最も古いジャズの音源があるとします。それを現代の我々が聴いて理解したり共感できるのだろうかということが問われます。逆に、現在とか未来の方向に時間を辿るとしましょう。そうすると、どこかで、モダン・ジャズによって形成されたような美意識では理解できないような音源が出現するのだろうか、という問題になります。後藤さんが例に挙げておられるジョシュア・レッドマンはどうでしょうか。実は私は不勉強でレッドマンを聴いていませんので、よく分かりません。ピアノに限りますと、そのような切断があるというのは私は知りません。NHK FMの土曜日の「ジャズ・トゥナイト」でよく新譜が掛かります。ピアノものも当然多くあります。いかにも現代っぽいハーモニーだなあ、などと思うことは屡々ありますが、理解不可能と感じたことはありません。

(なお備忘のために自分の投稿を自分のFacebookはてなダイアリーに保存させていただきますので、ご了承ください。)