批評空間社顛末

【これは2012年2月28日に書いたものです。公開しないつもりでしたが、故人である内藤さんが根拠のない話、つまり、私が批評空間社に地域通貨Q加入を強制したというような話を流布していましたので、それを公式に公開的にはっきりと否定、拒絶しておく必要があると考え、公開に踏み切ります。繰り返しますが、私はそのようなことを一切していません。死者に鞭打つことはしたくありませんが、内藤さんの物言いは余りに勝手です。私は彼や批評空間社などに関係がないし、興味もないのです。ただ単に困るし迷惑です。】

(現在Facebookで書いています。興味ある方はそちらでフォローしてください。mixiはてなダイアリーなどにはその一部だけを抜粋して掲載します。)

自分が書きたいのは批評空間社のことです。批評空間社はNAMが作った唯一の生産協同組合です(但し、法律的、制度的には株式会社でした)。大阪のニュースクールはNPO法人でした。Q管理運営委員会はNPO法人化の準備をしていましたが、紛争のせいで頓挫しました。Qの一件に関しては、私もおおいに問題を起こしたので、責任を感じて反省すべきかもしれません。

さて、批評空間社は、太田出版にもともといた内藤裕治さんが社長になって独立したものです。その独立に際しては、太田出版と感情的な軋轢があったと聞いています。それはともあれ、批評空間社という株式会社が作られました。法律的には、株式会社であったけれども、出資額に関わらず組合員は一人一票にするという約束によって、生産協同組合にしようとしたわけです。

批評空間社からは柄谷さんの『トランスクリティーク』の初版が出版されましたし(その後の版は岩波のはずです)、ほかにもあれこれやっていたと思います。ただ、経営は大変だったそうです。社長の内藤さんには悩み事があれこれあって、困っていました。

内藤さんの悩みというのはこういうことです。柄谷さんが日本の出版業界に革命を起こすとか、書籍の流通をすっかり変えてしまうんだというような大言壮語をあちこちで言いまくり、書きまくっていたわけですが、現場の人間としてはそういうことが非常に迷惑だし困ってしまう、というわけです。

私は生前の内藤さんに会ったことは一度しかありませんが、内藤さんは、柄谷さんには現場の人間の苦労が分かっているのか、というような愚痴をこぼしていました。

批評空間社には、NAMに多くいた学生が無償でボランティアで行っていました。対価は払えないのでせめて批評空間社の本を学生さんにあげる、という感じだったようです。それほど会社経営が大変であったのです。

或る日、その内藤さんが癌で倒れました。ずっと入院していたのですが、柄谷さんが面会に行っても、内藤さんはそれを拒否しました。それは実は内藤さん自身の意向だったのですが、不幸なことに、柄谷さんは誤解をし、被害妄想を抱いてしまいました。

それはどういうことかと申しますと、中島さんという内藤さんの奥さんがいたのですが、その中島さんの陰謀のせいで、内藤さんに会えないのだ、と柄谷さんが思い込んでしまった、ということです。それで、柄谷さんは、彼女を激しく憎み、深い怨恨感情を抱きました。

そのうちに内藤さんは亡くなってしまいました。

そうすると、柄谷さんは、内藤が死んだ以上、批評空間社はもう解散する以外にない、と言い出しました。

柄谷さん以外の組合員は、批評空間社を存続させたい意向であったのです。中島さんのほか、浅田さん、鎌田さんなどが組合員でした。私の記憶が正しければ、西部さんも組合員だったと思います。柳原さんは監査役で入っていました。

当時柳原さんと会って話しましたが、彼はほとほと困り果ててしまっていました。柄谷さんが余りにも強引で我儘だったからです。柳原さんはもう、批評空間社は柄谷さん抜きでやっていくしかないんじゃないか、と言っていました。

けれども内部でどういう議論だったのかまでは知りませんが、結局批評空間社は解散してしまいました。

私は「憎しみの連鎖」というような日本語はこういう場合に使うべきだと思います。まず、柄谷さんは中島さんを憎んでいました。中島さんの陰謀のせいで死んでいく内藤さんに会うことができなかったのだ、という(事実と異なる)妄想を抱いていたからです。だから彼は、内藤さんの死後、中島さんが中心になって批評空間社を継続するのが許せませんでした。それで強引に解散させてしまったのですが、そのことで中島さん、鎌田さんなど存続を願っていた組合員が柄谷さんを憎むようになったとしても、それはもうどうしようもないのではないでしょうか。

柄谷さんがいかに内藤さんに愛情、友情を持っていたか、大切に思っていたかということは非常によく分かります。けれどもそれは非常に一方的で歪んだ愛情だったのではないでしょうか。内藤さんは困惑し、迷惑に感じていたのです。だからこそ自分が末期の癌で確実に死ぬと分かっていても、むしろそれゆえに、柄谷さんを面会謝絶にしたのです。もっといえば柄谷さんが中島さんにパラノイアックな被害妄想を抱いてしまったのも、彼女への嫉妬(死にゆく内藤さんを独占している)のようなものです。

私は批評空間社とは全く無関係でしたが、しかし、間接的に非常に迷惑を蒙りました。それはこういうことです。内藤さんが、批評空間社が地域通貨Qに加入するように攝津という人間から無理を言われ、強要されて困っている、というようなことを周囲の人、例えば鎌田さんに話し、鎌田さんが内藤さんの話を信じてしまったので、見当違いの非難をされてしまった、というようなことです。

私がそういう事実は全くなかったということを鎌田さんに丁寧に説明したら、彼は理解してくれましたが、しかし謎が残ります。どうして内藤さんはそのような事実と異なる話をしたのでしょうか。私には一つしか可能性が考えられません。

もし内藤さんにそういうことを強要できる人間が誰かいたとすれば、それは柄谷さん以外には考えられません。しかし、当時の内藤さんには表立って柄谷さんに文句を言うことがどうしてもできなかったということです。だから、「攝津」のせいにした。そういうことであろう、と推測します。それ以外にあり得ません。

もちろん私としては、そういうことは非常に迷惑だし困ります。けれども、内藤さんとしては他にやりようがなかったのだろう、とは推察します。柄谷さんを批判できなかったとしても、自分が死んでいくときに柄谷さんを面会謝絶にして会わなかったというのは、せめてもの彼なりの抗議の意思の表明だったのでしょう。けれどもそのことさえも、柄谷さんは中島さんの陰謀であると解釈してしまいました。それは不幸なことであったと思います。

NAMに関係することの多くがそうですが、これも悲惨な話です。

ちなみに内藤さんが亡くなったとき、岡崎さんが、確か「不滅なるもの」とかいう題名の、非常に感動的な追悼文を書きました。私の友人がウェッブサイトを開いていたとき、彼はその文章を自分のウェッブのトップに掲げていました。その友人はNAMとは関係がない人でしたが、その岡崎さんの名文に余程心を動かされたということだったのでしょう。

事実関係を記憶の範囲で正確に書いておきましょう。それはこういうことでした。或る日柳原さんからメールが来て、批評空間社がQに入りたいのだけれども、Qのウェッブサイトやソフトウェアの操作が技術的に分からず困っているので、どなたかに教えていただきたいという依頼があったけれども、攝津さん、来ていただけませんか、ということでした。私は柳原さんからの依頼を承諾して批評空間社のオフィスに行きました。私だけではなく、ほかにも数人のNAMやQの人が同行していたはずです。批評空間社側は、当時既に内藤さんは入院していて不在でしたので、中島さんが対応しました。批評空間社、Q、そして私の関わりというのはこれが全部です。どのように記憶を辿ってみても、私がQ加入を強制、強要したなどということはあり得ないのです。そもそも内藤さんに個人的に会ったり、電話やメールなど連絡したことすらありません。だから、私が合理的に考える限りでは、内藤さんの話というのは事実ではなかった、ということになります。柄谷さんへの怨恨を私に擦り替えたか、或いはそうでなければ端的に誤解、勘違いしていたか、そのいずれかです。しかし、生前の内藤さんが、理由は知りませんが、私に嫌悪や怨恨の感情を抱いていたということだけはどうも事実のようです。

もちろん私のほうは、内藤さんを個人的に知りませんし、なんの関係も関心もないので、恨まれたとしてもわけがわからないので困惑するだけですが。

推測すれば、内藤さんは私に限らずNAMとかQにかかわる全てに反感を持ち、恨んでいたのではないでしょうか。もう亡くなった方なのでその心理は想像してみるしかありませんが、要するに、自分(内藤さん)は批評空間社で実務、経営に日々苦しんでいる。なのにあの能天気なNAMとかQとかいう連中はなんだ、自分の苦労も知らずに、というようなことだったのでしょう。それが、大法螺を吹きまくっている柄谷さんへの苦々しい感情と渾然一体になってしまい、わけがわからない感情的なもつれになってしまった。漠然とNAM一般、Q一般を恨むというような器用なことができなかったので、とりあえず「攝津」という奴が目立っているからこいつを憎んでおくことにしよう。そういうことだったのではないでしょうか。

繰り返しになりますが、内藤さんや批評空間社にとりたてて関心がない私には、そんな勝手なことで恨まれても困ります。NAMが能天気でいやならただ単にやめればよかったし、Qに入るのがいやなら入りたいなどと言わなければよかった、ただそれだけです。でも、当時の内藤さんには、柄谷さんとの関係上、そうできなかったのです。