いーぐる後藤雅洋さんへの応答

【件名:はてなダイアリー拝見しました。】

後藤さん、ありがとうございます。ウンベルト・エーコの小説や野矢茂樹懐疑論の本はこれから読もうと思います。
お考えに概ね同感です。CDはともかく、楽譜、採譜で音楽、ジャズを論じるのは不十分だと思います。「CDはともかく」と留保したのは、少なくともCDにおける再現(反復)可能性は担保しなければ、それこそジャズにおけるアーカイヴはまったく成り立たないと思うからです。
或るジャズミュージシャンの或る晩のLIVEに行った人になら分かるが、そうでない人には永久に分からない、そういうことになってしまうと思います。

アドルノは『ベートーヴェン 音楽の哲学』を書きましたが、断片、断章なので十分に理解できたとはいえませんが、私の理解が正しければアドルノベートーヴェンの楽譜というレヴェルで考えていると思います。つまり、具体的に誰それの演奏ということではなく、その楽譜が表現する理念(イデア)としてベートーヴェンを把握したということです。
私は音楽大学でクラシックを専門的に学んだ経験がありませんので、アドルノのようなやり方でいいのかどうかは正直判断できません。ただ、ジャズの場合はそのやり方が全く通用しないのは分かります。LIVEか、最低限CD音源に依拠するのでなければ論じられないと思います。後藤さんが書くように、採譜したとしても、音色やテンポの微妙なずれなど、ニュアンスが全部抜け落ちてしまいます。それをもとにジャズミュージシャンを論じることはできないと思います。

私が慎重に考えてみますと、批評から自立した客観的な学問としてのジャズ美学は困難だし、「知の考古学」を援用するから現象学(「体験」への依拠)を否定するとかいうこともできないと思います。フーコーすらも、それこそ『言葉と物』は例外かもしれませんが、現象学的な発想を完全に否定できていないと思います。
フルート奏者のOさんが言及されておられたアメリカのアカデミズムの実証的なジャズ研究なるものの内実はよく分からないのでそこは留保するしかないですが、自分が分かる範囲ではそういう結論になります。

フーコーがどうの、ということを離れて個人的な考えを素朴に申し上げますと、ジャズ表現はどこまでも個人の表現、パフォーマンスだという決定的な点があるように思います。例えば、パーカー、パウエル、モンクの表現とかです。現在生きている人やそれほどメジャーでないミュージシャンでも同じです。それはその人個人の表現であり、即興、アドリブなのだということです。その条件は超えられないと思います。
聴くという立場でも、批評家でもジャズ喫茶の店主でも、或いは一般のファンでも、個々人が聴くわけです。なるほど「いーぐる」での連続講演会での意見交換とか、com-postなどの場で、後藤さんがおっしゃるような現象学的な「共同主観性(間主観性)」、ジャズ耳が成り立つ可能性はあるでしょう。けれどもそれはあくまで主観性を超えてしまうようなものではありません。「客観的」なものではありません。例えば私は、エスペランサ・スポルティングが素晴らしいと思いますが、そのようなことをどのような理論とか論理が正当化するのかよく分かりません。それはどこまでも私個人の美意識なり価値観でしかないと思います。

とりあえず、今日はここまでにします。繰り返しになりますが、応答ありがとうございました。

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