おはようございます。

おはようございます。恋愛に苦しむときは恋愛小説を読みます。ロラン・バルト『偶景』(沢崎浩平・萩谷芳子訳、みすず書房)、エルヴェ・ギベール『ヴァンサンに夢中』(佐宗鈴夫訳、集英社)を読みました。「一種の絶望感にとらわれて、泣きたくなった。もはや明らかなことだった。若い男と交渉を持つことを諦めなければならない。彼らの方で私を求めてはいないのだし、また私の方から彼らに自分の欲望を押しつけるには、私に良心のこだわりがありすぎるか、あるいは不器用すぎるのだ。これはどうにも避けがたい事実で、恋の試みのつど立証されてきたことだ。そのために私はみじめな生活をしいられ、結局のところ退屈している。だからこの興味、もしくは希望を人生から追い払う必要がある。」(『偶景』p.134)、「それから私は仕事を口実に彼を帰した。そうしながら私は了解した。終わったのだ、ということを。そしてこの青年を越えて何かが──つまり特定の一人の青年だけを愛する恋が──終わってしまったということを。」(同書、p.135)

ギベールは全く素晴らしい。特定のどこを、というのではなく、全てを引用したいくらいです。私は、同性愛の文学はまれだと思います。ジュネとバロウズがいたではないか、と言われるかもしれませんが、私の考えでは、ジュネはまず「悪」の作家と看做すべきです。バロウズにしても、『おかま』のような初期の試作はともかく、後年の『ワイルド・ボーイズ』とかを同性愛の文学などというべきなのか疑問です。限りなくSFというか、「緑少年」とか何とか、わけがわからないがとにかく人間ではないことは確かな(笑)登場人物が沢山出てきて、確かにセックスをしているけれど、それを同性愛というべきなんでしょうか。よく分かりません。私が考えつく良質な同性愛の文学といえば、『ジョヴァンニの部屋』『もうひとつの国』のボールドウィンくらいです。

ドミニク・フェルナンデスがいますが、彼の『除け者の栄光』は確かに良くなかったです。その小説の基本的な発想は、ジュネの時代はよかった、というものです。同性愛は偏見を持たれ差別されていたけれども、彼の表現でいえば「栄光」があった。しかし、それが失われてしまった。皮肉なことにエイズ禍が再び同性愛に「栄光」を回復した、というようなことですが、そのような考えに私は反対です。しかし、それだけがフェルナンデスの小説ではない。他にもいろいろ書いているし、なかには面白い作品もあったように思いますが、よく覚えていません。

図書館に行くので、メモ風に簡潔に書きます。まず『ワイルド・ボーイズ』は私のいったようなものではありませんでした。『ソフトマシーン』かなにかと間違えたのでしょう。『ワイルド・ボーイズ』は素晴らしい同性愛文学です。『おかま』も読み返してみましたが、これは随分悲しい小説ですね。リーという主人公のゲイ男性が、ユダヤ人のカールという少年から別れを告げられるというところから物語は始まります。アラートンという青年に恋をするが、どうしてもうまくいかない。そういう話です。話が飛びますが、中学生の頃好きだった男の子を、卒業後随分探しましたが、発見、再会はかなわなかったのを思い出しました。彼は同窓会にも来なかった。そういうことでもう、自分はすっかり悲しみに沈みます。しかし、気を取り直して、図書館に行くことにしましょう。

『おかま』についていえば、入手不可能な『爆発した切符』以外全部読みましたが(『爆発した切符』も山形浩生訳で出るはずだったのに、ペヨトル工房が倒産してしまったのです)、私の理解する限り、バロウズがここまで率直に語ったのはただこのときだけであった、と思います。最晩年の一連の作品の悲哀はまた別でしょう。『おかま』では、主人公リーにとって、人間関係はすべて欺瞞です。そして彼は、恋愛に人間的な触れ合い、接触を求めますが、しかし最終的に挫折してしまいます。或る意味ではこれほど暗い話もないでしょうが、しかしそういうものだ、と思います。最晩年の作品の問題については、山形浩生が『たかがバロウズ本』でいっていることが妥当だと思います。バロウズは散々好き勝手をやったけれども、全く自由にはなれなかった。それどころか、恋人達には死なれ、奥さん(バロウズは同性愛者といっても、女性とセックスもできたし、それを愉しんでいたようです)は「ウィリアム・テルごっこ」で射殺してしまい、息子はとんでもない小説を書いた挙句自滅的な死に方をしてしまう。客観的にいって、大変なことになっていたと思います。そのような彼の晩年が寂しかったというのも理解できます。

主人公リーの感じている感覚というのは、話が飛躍するようですが、山田花子が遺著で書いていたような、つきつめればすべての人間関係はいじめるか、いじめられるかでしかない、というような信念を連想させます。人間関係は欺瞞だというリーの考えも、いじめる/いじめられる関係しかないという山田花子の考えも、客観的に、または一般的にいえば歪んだ認知ということになるでしょう。しかし、そのようにしか思えない、感じられない状態があるというのはよく理解できます。人間は常に「正しく」考えるわけではないのです。それは不可能です。

バロウズの息子の小説『スピード』は邦訳もされていたと思うしかつて読んだ記憶もありますが、バロウズと子供の関係は、ホロヴィッツと娘さんの関係を想起させます。彼らは、偉大な芸術家だったかもしれませんが、良き父親、良き家庭人ではまったくありませんでした。子供には親が芸術家とかは関係ないので、端的に不幸であったと思います。ホロヴィッツの娘さんも随分無茶をして、若くして死にます。事故死だったと思います。ホロヴィッツは父親としてなにかをしようともしないし、またできもしないのです。

奥さんの射殺は、アルチュセールとは違い責任能力があったわけだから、バロウズは当然、罪を償うべきでしたが、そうはしていません。メキシコやタンジールに逃げたのです。しばらくして、アメリカに戻りましたが、アメリカの司法制度にくわしくないのでどうしてだか分かりませんが、訴追されませんでした。後年のバロウズは、あれは「悪霊」が自分に取り憑いてやらせたのだ、とかいっていますが、それが惨めな言い訳だというのは誰の目にも明らかです。

バロウズの息子の小説はひどすぎると山形浩生は評していますが、それをドゥルーズガタリは真面目に読んだようですね。次のようにいっています。「パラノイア的な点、閉塞点、あるいは錯乱的な激発といったもの、バロウズ・ジュニアの本『スピード』にはそれがよく見てとれる。」(『千のプラトー』p.176)

後年(1985年)のバロウズの認識はこうです。「もしジョーンの死がなければ、決して作家になることはなかっただろう。そう結論せざるを得ない。そして気づかされるのだ。この事件がどれほど私の執筆を動機づけ、規定してきたか。私は絶えず憑き物に脅かされながら、絶えず憑き物、支配からの脱出を求めて生きている。だからジョーンの死は、私を侵略者、「醜い霊」と出会わせ、一生涯通じての闘争に導いた。書き出る以外に道はない。」(『おかま』、p.31)

合理主義的、近代的にいえば、憑依霊、憑き物、「醜い霊」などいないのではないか、単にあなたが奥さんを冗談でうっかり撃ち殺してしまったというだけじゃないか、とか思いますが、バロウズはそのように考えたくはないのです。むしろ、憑き物、支配、侵略者、「醜い霊」と「一生涯通じての闘争」をしているんだというご自覚です。しかし、読み手としてはバロウズの自己認識をそのまま受け取り、信じる必要は全くありません。例の有名な「言語は宇宙から降ってきたウイルスだ」という妄想的な主張(そこから彼は、カット・アップの実験に向かう)を含め、全てが欺瞞じゃないかと考えることもできるのです。

「私の考える憑き物とは近代心理学的な説明よりもむしろ中世のモデルに近い。近代的説明では、そうした霊存在は内からくるものであり、決して、決して、決して外からくるものではない、とされるからだ。」(p.28)とバロウズは書いていますが、私が想起するのは、小林秀雄がどこかで、幽霊を見たといえば嗤う程度の近代的知性、と批判的に語っていることです。私は別に、幽霊を見たという人がいても嗤うつもりはない。近代合理主義で割り切れない事柄もあるだろう、とは思っています。しかし、バロウズの場合、奥さんの「ウィリアム・テルごっこ」による射殺という事実の責任から逃れるためにそういう話をしているだけです。事実、彼は国外に逃亡しました。法的、刑事罰的にも一切、責任は取っていないわけです。例えば日本の法体系であれば、国外に逃亡している期間は時効のために計算されない、とかあったはずですが、アメリカの場合どうだったのかは分かりません。しかし、なにはともあれ、バロウズが自分は霊に支配されていたのだと言い張って、罪を償うことがなかったのは事実です。

主人公リーの状態については、1985年の作者バロウズは客観化しているようです。「「おかま」の原稿断片の最初の部分では、ヤクの孤島から生の国へ、狂える愚かなラザロのように帰ってきて、リーは性的な意味でキメようとしているかのようだ。自分に合った性的対象を求める彼の探索は、妙に組織的で、性的でない。一つ、また一つと見込みを線で消していくのだが、そのリストは、最終的には失敗しようとして編集した物のように見える。心のどこか深いところでは、リーは成功したがっていないのだが、自分が実は性的触れあいを求めていないのだと認識するのを、何とかして避けようとしているのだ。/しかし、アラートンは確かにある種の触れあいではある。ではリーが求めている触れあいとは何か。今にして思えば、それはひどく混乱した概念で、アラートンなる人格とはまるで無関係。中毒患者は自分が他人に与える印象に無関心であるが、禁断状態になると無理矢理にでも観客を求めることがある。そしてこれこそまさにリーがアラートンに求めているものだ。観客、自分のお芝居の認知、それはもちろん、ショッキングな自己崩壊を隠すための仮面である。そこで彼は気違い沙汰の注意獲得フォーマットを作り上げ、それを「ルーチン」と名づける。ショッキングで、おかしな、人目を魅くやり口。「老いたる水夫が入り来たり、三人の中の一人をとどむ──」/リーのお芝居は決まりきったルーチンの形を取る。チェス選手、テキサスの石油掘り、コーン・ホール・ガスの中古奴隷市場についての作り話。「おかま」ではリーはこうしたルーチンを実際の観客に対しておこなう。やがて、作家として成長してゆくと、観客は内面化される。しかし、AJやベンウェイ医師を創り出したのと同じメカニズムが、同じ創造の衝動がアラートンに捧げられる。彼は満足顔のミューズの役割を押し付けられて、当然落ち着かない思いをしている。/リーが求めているのは触れあい、あるいは理解だ。まるで非現実のかすみから現れた光子のように、アラートンの意識に拭いされぬ痕跡を残そうとする。もしぐあい良く観察者が見つからないと、誰にも観察されなかった光子同様、苦悩に満ちた自己崩壊の危機が訪れる。リーは気づいていないが、彼は既に執筆を始めている。アラートンに観察する気があろうとなかろうと、拭いされぬ痕跡を残す方法は他にないのだ。リーは容赦なく虚構の世界に押しやられている。自分の人生と、自分の仕事のどちらを選ぶか、リーはすでに決めてしまっている。」(『おかま』、p.24-25.)

実に見事で正確な回顧であり自己認識、自己客観化です。私が「醜い霊」がどうのという話を信じないのは、バロウズが全く精神病水準の人ではなく、このような冷静な分析、認識をする能力がある人だからです。そのうえで、気になることがあります。「心のどこか深いところでは、リーは成功したがっていないのだが、自分が実は性的触れあいを求めていないのだと認識するのを、何とかして避けようとしているのだ。」「リーは容赦なく虚構の世界に押しやられている。自分の人生と、自分の仕事のどちらを選ぶか、リーはすでに決めてしまっている。」つまり、リー、バロウズは現実の性的触れあいや「理解」を断念し、「虚構の世界」「自分の仕事」つまり創作活動を選んだのだということです。それは芸術家としては成功かもしれませんが、一人の生身の人間としては余りにも寂しいと感じるのは私だけでしょうか。

「あらゆる関係にリーが求めるのは触れあいの感じだった。カールとはいくらかの触れあいが感じられた。この少年は礼儀正しくリーの話を聞き、理解したようだった。最初は例によって尻込みしたが、自分への性的関心も受け入れた。カールは言った。「君に対する気持ちは変えられないんだから、他についての気持ちを変えるしかない」」(『おかま』、p.36)しかし残酷なことですが、「触れあいの感じ」を得ることはどうしてもできません。この小説はカール少年から別れを告げられる場面から始まります。そしてリーはアラートンという青年に恋をしますが、どうしてもうまくいかない。

「このコンテクストでは、病気の問題は脇に措くことにします。そしてそれよりも、恋愛における同性愛者の最高のときは、恋人がタクシーで去るときだ、と述べた私の最初の所見にただ戻りたいのです。微笑みを、身体の温もりを、声の音を思い出すのは、性行為が終わって青年が去ってからなのです。同性愛関係において重要な役割を果たすのは、行為の先取りよりもその追憶なのです。だからこそ、(コクトー、ジュネ、バローズといった)われわれの文化の最も偉大な同性愛作家たちは、性行為をあれほど見事に描写するのです。先に述べたように、こうした一切は、具体的で実践的な考察の事実でしかなく、同性愛の内的性質について何かを語るものではまったくありません。」(ミシェル・フーコー『同性愛と生存の美学』増田一夫訳、哲学書房、p.64-65.)→フーコーの主張には頷けるところとそうではないところがあります。ここでは、バロウズが「性行為をあれほど見事に描写する」という主張を検討してみましょう。

バロウズの『ワイルド・ボーイズ』(山形浩生訳、ペヨトル工房)を再読しました。幾つか気付いたことがあります。同性愛の性描写は無数に至るところに出てくるし、確かに「見事」といえないことはないと思います。ただ、これに限らず他の作品でもそうですが、あの「触れあいの感じ」を求めてやまななかったリーはもういないのです。性行為の描写といっても、無数の野性的で魅力的な少年達が実に楽しそうにセックスを繰り返すばかりなのです。フーコーが見事な性描写と呼ぶものが獲得された代わりに、なにかが確実に失われ、犠牲にされ、断念されたのです。

私は文学の研究が専門ではないので、間違った意見かもしれませんが、このように感じます。かつての「リー」は死んでしまった。今では純粋な視線、眼差しとしてのみある。ここにあるのは他者、つまり少年達の性的な享楽を眺めることで自ら享楽する無名で匿名の眼差しだけなのだ、と。『おかま』でリーは、美しい少年達の集団とすれ違っただけで、胸の「痛み」を感じます。つまり、彼は、自分と他者を絶対的に隔てているものに敏感で、それに苦痛を感じているのです。しかし、『ワイルド・ボーイズ』やカット・アップ3部作の性描写には、良くも悪くも享楽以外存在していません。それは、かつてのような「触れあいの感じ」がもう、問題にならなくなってしまった、ということなのです。

このような変化や相違は、良い悪いの問題ではありません。人間的/非人間的な性の是非という問題ではないのです。単に、違っている、というだけです。さて、指摘したいことが他にもあります。バロウズにとって、タンジールでの経験が大きかったのではないか、ということです。彼は、アメリカのWASPを生涯、死ぬほど憎んでいました。何故なら、彼らアメリカの支配層は、同性愛にあからさまに偏見を持っていたからです。同性愛を否定する人間への憎悪は、バロウズにおいては生涯、変わりません。バロウズは、性的な寛容さがない当時のアメリカ社会を非常に窮屈に感じていたのです。だから、上流階級の出なのに、アウトサイダーになりました。

『おかま』でもメキシコへ渡ったリーが感じていることですが、身体的な接触、それこそ「触れあい」にたいする敷居の低さが、アメリカとメキシコで既に違っていました。ヨーロッパ世界、アメリカのみならず、戦後の日本も含めていわゆる「先進」諸国に共通してみられる傾向ではないかと思いますが、気軽に他者に身体的に接触することは禁忌なのです。しかし、メキシコやタンジールでは違っていました。タンジールに住み『裸のランチ』を書いていたバロウズが、母国アメリカでは感じられなかった性的な自由を体験していたとしても、不思議ではありません。

そのような経験をしたのは、別にバロウズだけではありません。アンドレ・ジッドというフランスの小説家がいますが、彼が『背徳者』や『一粒の麦もし死なずば』ではっきり書いているのは、或るアラブの国(具体的な国名は忘れました)で、美しい少年から性的に誘われたというのが決定的な体験であった、ということです。記憶が曖昧ですが『狭き門』などに書かれていたと思いますが、ジッドは従妹と結婚したけれども、彼らの結婚は「白い結婚」、つまり性行為を伴わない結婚生活であったと言われています。しかし、彼は別に性を否定する禁欲主義者であったわけではありません。単に同性愛者であったのです。

勿論、世代や時代の違いも大きいはずです。『ヴァンサンに夢中』などのギベールの小説作品で、同性愛は実にあからさまで自由です。しかし、当然、かつては違ったのです。ジッド、フーコーバロウズのような人々は同性愛を敵視する世間や、自ら内面化してしまっている同性愛への否定に苦しまなければなりませんでした。ディディエ・エリボンの『ミシェル・フーコー伝』にはっきりと書いてありますが、若い頃、高等師範学校のエリート学生であったフーコーは、公然と自殺未遂を繰り返したり、刃物を振り回して同級生を追い回したりする精神的に不安定な若者でした。彼は同性愛に苦しんでいました。例えば、教授や他の学生から誘われて夜の街へ行き、同性愛の店で性的ないちゃつきを体験する。ところが、翌日になると、その記憶の恥ずかしさに耐えられず、情緒的に非常に激しく混乱してしまう、などです。それから、少し後のことですが、将来を嘱望されていた現代音楽の作曲家の青年と恋仲になったけれども、その恋人が自殺してしまうという不幸があった、ということは以前書きました。

フーコーについては後ほど少し話すことがありますが、今はバロウズの話に戻ると、そもそもアメリカで最初に公然と同性愛を肯定的に語った作家がバロウズギンズバーグギンズバーグは詩人ですが)であったはずです。それまでは、ホイットマンの詩集『草の葉』においてちょっと同性愛的なことが書いてある、というくらいで、同性愛を主題的に公然と語った人はいなかった、と思います。ボールドウィンとどちらが時期的に早かったかは、今確認できませんが。勿論社会の風俗習慣を変えるのは作家の力だけではありませんが、ビート・ジェネレーションがアメリカ社会に与えた衝撃は今からは想像もつかないほど大きかったはずです。ビート・ジェネレーションは、なるほど文学としては専門的な、或いは高尚なものではなかったかもしれません。しかし、それはまずもって社会風俗における強烈な変化としてあったのです。

さて、フーコーに戻りますと、彼の『知への意志』における主張の是非が議論されたことがありました。つまり、権力は性を抑圧するのではない、むしろ過剰に語らせるのだ、というような主張の是非です。それが性解放や、同性愛の解放といった主張を否定するものと受け取られて論争になりました。私は、そのことについて、どちらが正しかったのかということよりも大事だと思うのは、先程紹介したような苦い経験を若い頃にしていたフーコーが、そのような主張をした(しなければならないと思った)というのは、極めて不幸で皮肉なことだ、ということです。

これから幾つかの同性愛文学を駆け足で語りますが、私の知識や認識が高校生の頃、1990年代からすこしも進歩していないということだけは、最初に申し上げておかなければなりません。

ジェームズ・ボールドウィン『ジョヴァンニの部屋』(大橋吉之輔訳、白水Uブックス)、ジェイムズ・ボールドウィン『もう一つの国』(野崎孝訳、集英社)→ボールドウィンは極めて真摯な作家です。ただ、告白すれば、『もう一つの国』を断片的に読むことはできても、纏めて通読するのに成功したことがありません。ルーファスという人が主人公ですが、彼が物語の終わりのほうで死ぬのは、同性愛だけではなく人種問題など様々な要素があったはずです。中上健次が『破壊せよ、とアイラーは言った』で唐突に「ルーファス」と呼びかけているのは、このルーファスです。中上にとってもボールドウィンの文学は大切なもの、根源的な問い掛けを発するものだったのです。

デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチ『ナイフの刃先で』(渡辺佐智江訳、大栄出版)、デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチ著・画『ガソリンの臭いのする記憶』(渡辺佐智江訳、白水社)→この人はプロの物書きではありません。美術家です。彼の美術作品をなにも知りませんし素人なので評価もできませんが、書いたものは個人的に非常に好きです。ヴォイナロヴィッチはエイズで亡くなるのですが、それ以前に、壮絶な体験をくぐり抜けてきた人です。まず親から虐待され、路上生活。売春。「間もなく客もとれないほどにやせ衰え、暴行を受け、何度も瀕死の状態に追い込まれる。」人に話し掛けることもできないほど精神的にも衰弱します。或るとき、20歳年上の写真家と出会い、彼に励まされ、美術家として成功しますが、しかし、その写真家をエイズで失います。自分自身もエイズと診断され、1992年7月22日37歳(奇しくも、私と同じ年齢です)で死去します。

デニス・クーパー『クローサー』(浜野アキオ訳、大栄出版)、『フリスク』(渡辺佐智江訳、ペヨトル工房)、『その澄んだ狂気に』(浜野アキオ訳、大栄出版)、『ジャーク』(風間賢二訳、白水社)→私は、以前申し上げたように文学の専門家ではないので、このような作家をどう評価していいか分かりません。ただ、自分に分かるのは、この人の小説からは強烈に死の匂いがするということです。それはゲイだから、同性愛だからということではなく、この人に特殊的なことではないか、と思っています。

ルノーカミュ『トリックス』(山岡捷利訳、福武書店)→これは、ロラン・バルトが序文を寄せていますが、いずれにせよ非常に変な本です。同性愛の性的な出会い(Tricks)の相手との性体験を淡々と、しかし延々と羅列しているのです。書かれた相手がカミュのを読んだ場合(つまり再会した場合)もあり、単に困ってしまう、という感じだったようです。そのことも書き込まれています。

ジョン・レチー『ラッシュ』(柳下毅一郎訳、白夜書房)→この作家は『夜の都会』(高橋正雄訳、講談社)で有名になった人ですが、正直自分にはよく理解できません。多分、彼とは「文化」が違うのでしょう。さて、同性愛文学紹介は以上で終わりです。

19:00なので閉店して2Fにいきますが、個人的なことを少しだけ。自分、高校生の自分にとって同性愛はまさしく「夢」以外のなにものでもありませんでした。しかし、それをかなえることはできませんでした。私には他のゲイと違い、なにか大事なもの(それがなんであるか、は分かりません)が欠けていたのです。今は付き合っている彼氏がいる。それは良いことだと思いますが、しかし、遅過ぎたという感じがしています。様々な経験を積んできて、その結果、自分がすっかり壊れてしまった、破壊されてしまったと思っているからです。