先日の紛争について
揉めた人のTwitter見てみましたが、25日に更新されていて、いろいろ屈辱的なことがあったんだと。その「屈辱的なこと」には私のこのブログも入っていると思いますが、私は、その人から希望がなければ、或いははてなの運営から要請がなければ、消去はせずに残しておこうと思います。
私は短気です。自分の尊厳が傷付けられたと感じたら激怒します。しかし、いつも「やり過ぎだな」と思います。今回もそうです。その揉めた相手を監視し続け、攻撃し続けるというのは、こっちもしんどいし、やめることにします。今後はできるだけその人の言葉を読まないようにし、Twitterもチェックせず、関わり合いを持たないようにしたいです。
つまり、無視、放置するということです。その人は、私から言葉の暴力を蒙った、私が加害者でその人は被害者だと思っているでしょうから、私を恨み続け、憎み続けることでしょう。でもそれはいいのです。実害ないのだから。「呪呪呪」などとtweetされても(それを見なければ)なんのダメージもない。だから、その人が私のことを憎み、呪い続けるのを放っておこうと思います。
紛争を振り返ってみてこう思います。その人には他者(例えば、母親)への倫理なり道徳感情が大事であり、私には自分が感じている主観的な苦痛が全てなのだと。簡単にいえば、その人は他者を優先し、私は自分を優先します。私は倫理や道徳を欠いたエゴイストなのです。だから揉めたのです。その人が説く道徳に私が反撥し、するとその人がTwitterに私宛てに「早く死ねよ」等と書き──今では消去されているようですが──、そのことに私のほうが激怒、激昂した、という流れです。
ごく当たり前の話ですが、違う人間が理解し合うのは難しいことです。今回の紛争はその一例かもしれません。私にはその人(の信念や考え方)が理解できないし、理解できたとしても賛同しません。私はその人の倫理なり道徳をあくまで拒みます。だから、もう友達でいることはできないし、交流をすることもできません。基本的に「分かり合えない」のだから。そういうわけで、私は、拒否、拒絶の姿勢は変えません。ただ、時々狂暴、である私は、穏健に戻ろうと思います。つまり、単にその人(の言葉)から目を背けることにします。それが一番いいだろう、と思います。