言葉は無限に溢れ出て〜誇大自己な私

香山リカ『〈じぶん〉を愛するということ 私探しと自己愛』(講談社現代新書)を1時間で読了した。読後感は、あー、そうだな、自分は自己愛の人だな、「誇大自己」な人だな、ということだ。が、それを改めようとはまるで思わぬ。自分の理想像と現実の自己の間に著しい乖離があるのは一目瞭然である。私は「自称」哲学者、「自称」芸術家といったイタくてキモい存在である。(平たくいえば、地域の不審者ということだ。)だが別にそれで構わぬと思っている。
プロのジャズピアニストになれなくても毎日演奏してYouTubeにuploadしようと思っているし、物書きになれなくてもはてなダイアリーSNSTwitterに書き続けるつもりだし、あれもこれもしようと思っている。
それで喰えないのは辛いが致し方がない。自分は「現実」を拒んでいる。
主治医は嫌な仕事ややりたくない労働でもやれ、働け、──と言うが私はそれを絶対的に拒否拒絶している。たとえ働かぬ故に死なざるを得ないとしても構わぬ。ハローワークに二度と足を踏み入れるつもりはない。履歴書を書くつもりもない。私は、何もしない。
理想が高い(高過ぎる)がために死を余儀なくされるというのは矛盾のようだが自然でもある。超絶な理想像を抱いており、それを求める欲望が満足することがあり得ないので、「生」そのものが駄目になってしまう。そういうことだろう。
或る人が、私のことを「私語り」に終始していて駄目だと言ったそうだが、それで何が悪い? 私には社会や他者etc.への興味関心がゼロなのである。自分にしか興味関心(愛や好奇心)がない。さらにいえば自分自身にすらない。私は死ぬまで虚像を追うのである。
当然、私のことをそのように非難した人だとか、そのことをわざわざ私にご注進してきた2ちゃんねらーなどにも、なんの興味関心もないし、彼らの話に耳を傾けるつもりも絶対にない。絶対的で全面的な拒否拒絶である。だから私は、『社会評論』を読まないし、「重力」や「岡山人民映画会」のウェブサイトを二度と読まないし、2ちゃんねるを読まないし、自分のブログのコメント欄も閉鎖した。要するに自己閉鎖した。それでいいではないか?
私は批判されて平然としていられるほど平和主義者ではない。私は激越である。だから、私を批判する言説をそもそも検索せず読まないことにしたのだ。血圧も上がるから。自己中心的で我儘だと言うか? それで何が悪い? 俺は俺だ。自分の流儀を絶対に貫く。一切妥協はしない。お前らの薄汚い言論など二度と読みたくもない。見たくもない。絶対に拒否する。主治医らに対しても同じである。