またしても、不眠の夜。

まずいことに、夜まるで眠れなくなってきている。
睡眠薬が効かない。
尤も早起きせねばならぬ用事なぞないのだから、夜更ししても構わぬのだが。夜更ししていると、中高年ニートとでも云うべき己が自覚されて厭な気持ちになるのだ。
それは良いとして。自分が好きな歌は限られている。それを列挙してみようと思いついた。

  • つくばねの峰より落るみなの川こひぞつもりて淵となりぬる(陽成院
  • おほ海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも(源実朝
  • 病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも(正岡子規
  • やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君(与謝野晶子

これらの好みになにか共通項や意味があるのだろうか、どうだろうか。自分には分からぬ。

話は変わるが、Ustreamでも触れたが、倉数茂『黒揚羽の夏』が主人公千秋の同性愛(疑惑)に触れたくだりが秀逸であった。長くなるが引用しよう。

サッカーの練習の帰りなのか、千秋の脇を、青いお揃いのユニホームを着た三人の少年がすれちがう。そのうちの一人が、歩きながら暑さに耐え切れなくなったのか、シャツを脱いで上半身裸になった。何脱いでるんだよ、とじゃれあう声が聞こえた。千秋は、剥き出しになった日に焼けた胸に目をやって思わず赤面した。自然に鼓動が激しくなる。
中学校にあがった頃、千秋は周囲の男子たちが、一様に目に昏い光を浮かべだしたことに気がついて戸惑った。彼らは男同士で集まると、決まってどこか後ろ暗い笑みをもらしながら、同じクラスの女子の名をあげて、その胸の膨らみや尻の丸みを話題にするのだった。
しかし、千秋が気になったのは女子のではなく、彼ら自身の体の変化だった。男子たちは、驚くほど短い期間に、それまですべすべと若い生木のようだった手足を、ごつごつと節くれ立ち、強靭な筋肉で覆われたものに変容させていっているように思われた。透明だった声が濁って低くなり、唇のまわりにうっすらとひげが生えた。肌が荒れ、にきびが噴き出した。千秋本人の体も、着実に変化しているように思われた。
その頃千秋は、男子たちがつねに鼻腔の奥をむっと刺激するようなスパイシーな香りを放っているように感じられた。その刺激臭は、脇の下や首筋から漂ってきて、吐き気を催させると同時に、いつまでもそれを嗅いでいたいような酩酊感を誘うのだった。体育の授業で激しい運動をしたあとなどに教室に戻ってくると、空気中にその臭いが充満しているように思われた。そのたびに千秋は、思い切り窓を開けて、空気をすべて入れ替えてしまいたい衝動に襲われた。
そんなある日、雨続きで洗濯物が乾かないことに業を煮やした母親に命じられて、千秋は自分の衣服を抱えて近所のコインランドリーに出向いた。家にはない乾燥機でまとめて乾かしてしまおうというのだった。機械が廻っているあいだ、彼はぼんやりと周囲を眺めていた。部屋の片隅に水着の女たちが表紙の週刊誌やマンガ雑誌が積みあがっていたが、千秋はどこか不潔な感じがしてそれらに触れる気がしなかった。
ふと、コインランドリーの窓から、隣のアパートの敷地の内側が覗けることに気がついた。あいだを隔てている生垣が枯れ落ちて、ごくごく限られた角度からだけだが、小さな庭と、その向こうの建物の一部が見えるのだった。ありふれた安アパートだった。だが、カーテンが開いているために、一階の室内が丸見えになっていた。千秋はそこに目をやって息を飲んだ。二人の学生風の若い男が裸のままで絡み合っていたからだ。彼らは互い違いになって相手の腰に顔をうずめていた。千秋は徐々にそれが何を意味するのか理解するとともに、頬が熱くなり、吐きたくなるような嫌悪感を覚えたが、なぜだかそこから眼をそらすことができなかった。どれほどのあいだそうしていたのだろうか。ほんの数秒か、せいぜい数十秒だったのかもしれないが、千秋にはひどく長く感じられた。不意に、男の一人が顔をあげ、まっすぐに千秋の方を見た。眼の大きな色の白い男だった。汗ばんだ額に、柔らかくカールした髪の毛がはりついていた。千秋は、男に気づかれたと思って、とっさに窓際から飛びのくと、乾燥の終わっていた衣類を急いで紙袋につめて足早にコインランドリーを立ち去った。
ところが家に帰って千秋はもう一度大きな呻き声をあげることになった。どこでまぎれこんだのか、紙袋のなかの洗濯物に、見慣れぬ男物のブリーフが交じっていたのだった。千秋はとっさにそれをゴミ箱に投げ捨てようとしたが、不意にふりあげた腕がとまった。こちらを見つめる男の面差しが甦った。いつのまにか股間に手が伸びていた。
精を放った後、千秋は汚れてしまったブリーフをハサミで細かく切り裂いて、翌朝出すゴミ袋の底に突っ込んだ。決して人に知られてはならないと思った。知られては生きてはいけないと感じた。
石鹸を使って慌ただしく手を洗いながら、千秋は、その名前も知らない若い男を激しく憎悪した。あの男が自分を穢したのだ。自分はまともな人間の列から転落してしまったのだ。千秋は、自分が濁流に巻き込まれて流されていくように感じ、恐怖と恥ずかしさと罪悪感のために震えた。そのまま洗面所の壁に頭を打ち付けたいくらい絶望していた。
それなのに、それ以来、夜毎の自慰が止められなくなった。カッツンと出会ったのは、そんなときだった。

自分の考えではこのくだりは完璧である。自分自身の思春期の性の不安を思い出し、苦笑した。思うに小説家というのは、常人が忘却してしまっている感覚を記憶し、それを自在に言語化できる人のことなのかもしれない。
日本の公教育は6・3・3の12年だが、性的な決定的な変化──私自身の場合もそうだったが、それはしばしばその後の人生を決定づけてしまう──が生じるのは概ね中学生のときである。中学生のとき、男子は性を知り、もし彼が同性愛者だったとすれば、他人と違っている自分に悩む。そのような苦悩は啓蒙によって軽減することはできるかもしれないが、なくしてしまうことはできない。「性」というこの無意味なものに苦悩せねばならぬというのは、(少なくとも一部の)人間の運命だと思える。苦悩すべく運命づけられた人にとって、苦悩を回避する方法はない。彼が自分を受け入れ肯定することができるようになるまで、どのくらいの歳月が必要なのかは誰にも分からない。
勿論同性愛は、『黒揚羽の夏』の中心テーマではない。しかしそれは、同性愛者の(或いは、そうであるかもしれない可能性のある)少年を主人公に据えたことにより、少年少女向けの物語の枠組みを良い意味で大きく逸脱している。
『黒揚羽の夏』は一方に正義の味方がおり、彼らが倒錯者、快楽殺人者を成敗するといった単純な勧善懲悪の物語ではない。悪、闇、暗い衝動と立ち向かうということは、主人公ら自身が、自らの心の闇と対決するということであるのだ。

(P[く]2-1)黒揚羽の夏 (ポプラ文庫ピュアフル)

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