反原発(脱原発)運動論争(批判)を考える

Twitterを見ていると、bcxxxさんと首都圏左翼の相互批判、disり合いが展開されているのだが、例えば今年の反戦と抵抗のフェスタのテーマの一つは「国民運動批判」だが、そこに6.11以降の脱原発運動への批判が込められているのは間違いない。
自分が考えるのは、1910年代、第一次世界大戦の時期に戻って考えてみようということである。
何故レーニンのカウツキー批判(「修正主義」「背教者」)が力を持ったか。それはドイツの社会民主主義者(社会民主党)が第一次世界大戦に際して戦争を支持したからである。それに対し、レーニンは「革命的祖国敗北主義」を唱え、実行した。
祖国への愛=愛国心、それを根拠に自らが死ぬ=殺されることや他者を殺すことの肯定、それは古代からあったが、近代のナショナリズムは民主主義が建前で「国民」主権であるが故に自己選択として「国のために死ぬ」というありようが出てきたことが深刻である。
さて、時代を戦後から現在に戻せば、ナショナリズムは(例えばマルクスレーニン主義的な国際主義、インターナショナリズムによって)上から=超越的に批判、断罪すれば済むようなものではない。例えば、bcxxxさんらのデモを左翼が、愛国主義的であり国民主義的(自国民中心主義的=外国人に対して排外主義的、差別主義的)であるとか、右翼と馴れ合っているなどと批判しているが、自分はそれに全面的には賛同しない。というのも、たとえ右翼であっても、国土が原発事故によって放出される放射能によって汚染されるのは堪え難いと思うだろうし、その心情を否定する権利はないと思うからだ。
そして話が飛躍するが、吉本隆明がかつて唱えた「大衆の原像」論=左翼は大衆の原像を自己思想に繰り込むことを課題とすべしという議論を想起する。また、吉本には独自の(言語表現からアプローチした)ナショナリズム論もあった。勿論大衆が、愛国的・排外的・差別的etc.である場合もあるだろうし、常に大衆と一致すべきだとは自分は思わない。しかし、大衆の動向を無視した前衛主義にも同感しない。
原発問題というのは広汎な射程を持つ。それが故に、論争を引き起こしているが、今後を見守りたい。