メモ(書きかけの草稿)

先生、
誰でもそうかもしれませんが、私にも、自分のことを分かって欲しい、理解して貰いたいという気持ちがあります。いきなり有名になるとか、売れっ子になるというのは無理な相談かもしれませんが、誰かに理解して欲しいというくらいのささやかな望みは叶えられても良いのではないでしょうか。
私は回避性パーソナリティ障害と診断されています。その診断の妥当性について、自分には分からないし、大して興味もありません。自分にとってリアルなのは自分の苦しみだけです。
私は、自分のことを、生存困難系とか自分苦といった言葉で言い表してきました。友人が、衣食住に事欠くわけではないのだから、生存困難というより実存困難だろうと言うのですが、自分ではどちらでも構いません。要するに、自分のことで苦しくて、他者を気遣う余裕がない状態にある、ということです。その苦しいというのは、社会的、経済的なこともあれば、精神的なこともあります。
自分は36歳ですが、社会的地位もまともな収入もありません。実家の家業の手伝いを細々と行い、寄生して生きているだけの存在です。そのことに罪悪感や劣等感を持ちます。ですが、どうにもなりません。
毎日ピアノを演奏し、YouTubeにアップしていますが、それにも反響はありません。売れる兆しはまるでありません。しかし、自分はそれを続けています。
文章もブログやTwitterなどで書き続けています。こちらも、何か作品として纏まる気配はありません。友人らが本を出し、研究者や作家として社会的にも認められていくのに、自分は取り残された格好です。しかし、能力がないので仕方がないのでしょう。
元々作家志望ですので、こうして文章を綴るのは好きです。苦になりません。ただ、価値があるというか、意味がある文章(何らかの作品とか)を書く能力はありません。長年苦闘してきてそのことが分かりました。
私は、「人生は無意味にして苦痛なり。」と言っています。友人は「凡庸な思想」と評しますし、確かにその通りだと思うのですが、しかし、36年間生きてきた結論です。頑張って生きてきたけれども、何にもならなかったし、これからもどうにもならないだろう、という暗鬱な気分が根底にあります。誰か別の人、他人のことは知りません。その人の人生は楽しく有意義であるかもしれません。ただ、自分の生は、無意味で苦痛だと思うのです。
以前自分が参加していた社会運動の人達は、「生きることは良い、生存を貶めるな!」と言っていました。基本的には異論はないのですが、しかし、私は、自分自身の生存に関して、それが「良い」とか、肯定すべきものとは到底思えないのです。自分は物心ついた頃から苦しい辛い人生を歩んできました。それは今も同じです。将来において、それが変わる可能性もありません。
私は自殺したいと何度も思いました。しかし、実際に死ぬ勇気はありませんでした。死にたい、死にたいと言いながら、実際には死ぬのが怖いのです。馬鹿げた話だと思われるかもしれませんが、それが私の実態です。自分は死の思想家なのに、いざとなっても死ねない。生き恥を晒すしかない。そのことにも絶望しています。
十年前、私の友人達が私のことを、「絶望の教室」とか「自虐の詩」(そういう題名の漫画がありました)と呼びました。自分はその頃から少しも変わっていない、成長していないのです。私の友人達は当時は無名でしたが、今は社会的地位もあり、結婚し子供ももうけています。しかし、私だけはいまだに無名で、本当にしょうもない存在なのです。
また、私達一家の経営する音楽教室の会員さん達の息子さんが丁度私と同年代なのですが、彼らは年収数千万円です。何故私だけ、一年に百万円も稼ぐことができないのでしょうか。企業に勤めていないし、そうするつもりもないから、ということでしょうが、彼らと私では違い過ぎます。
私にも、企業の就職試験を受けたり面接したこともありました。しかし、結果は全て駄目でした。CD購入(買い物依存症)で数百万円の借金を作った時には、一日8時間週6日の肉体労働に従事しましたが、一年半程で精神的に変調を来たし、辞めざるを得なくなりました。過去の労働体験がトラウマになり、自分には家の外で働くことは出来ないのだと思っています。何度か働いたことはありますが、いずれも、自分にはとても辛い経験でした。今、実家の音楽教室で「働いて」いますが、働いているなどというのもおかしいくらいの怠け者ぶりなのです。生徒さんは滅多にこないし、来たところでちょっとピアノを弾いてやるくらいのことで、「働く」なんて言えるものではありません。私は、働くのが厭です。なので今の自分の怠惰な生活に満足しています。しかし、それでは経済的破綻を避けられそうにもないことは分かっています。障害年金生活保護も受給困難、恐らく無理です。かといって、ベーシック・インカムのような社会的制度が実現するのは(仮に実現するとしても)遠い将来の話でしょう。しかし、それまでも「生きて」いかねばならない、言い換えれば何とか遣り繰りして生活していかねばならないのです。私は、攝津家の収入と支出を全部管理しています。家計簿もつけています。だから、自分の経済状態が深刻に悪いことも理解しています。しかしそれでも、働けないし、働きたくもないのです。もし「働かざる者喰うべからず。」と言うならば、私は「喰わない」──死んでもいいのだ、と思っています。
私は自分のためでなく、年老いた両親の世話をするために生きているのだ、という心持ちでいます。最近、恋人=同性愛の彼氏ができましたから、状況は少し変化しましたが、しかしその彼ともまだ三度しか会っておらず、いつ捨てられるか、連絡が途絶えるか分からない状態です。もし彼氏から振られたら、私のショックは大きいと思います。また絶望感に苦しむことになるでしょう。しかし、だからといって、相手の人を拘束することはできません。私とパートナーでいることを選択するかどうかは、常に彼の自由です。そのことは分かっています。彼は、私のブログやTwitterを読んだり、Ustreamを視聴したりしてくれているので、そうしたインターネットメディアを介して私のことを知ろうと努めてくれています。しかしそれでも、時々私のことがよく分からない、と言います。それはそうだろうな、と思います。私は、他人に、自分のことをすぐ完全に理解して貰いたいとは要求できません。家族すら私のことを完全には知りません。友人もそうです。私は、単に孤独です。しかしそのような孤独感というのは、人間が生きる条件であるのかもしれません。