名前(ペンネーム)を巡る夢

奇妙な夢にうなされて2時間で目覚めた。
夢の内容は次のようなものである。『神的批評』の大澤信亮君と対談し本を出すことになる。夢の中ではLETS-Qの西部忠さんとの本(実在しない)に私も大澤君も参加したことになっている。議論は、対談(口頭)でなされ、また、彼の本?への手書きの書き込みやパソコン?でもなされる。
議論のテーマは、名前、ペンネームについてである。議論はペンネームを肯定する方向で進むが、私が大澤君に異を唱えたりして、引っ掛かる。私が大澤君に、「自分と君の二人になってしまって心外でしょう、西部さんの本とメンツがかぶってしまうし」と言うと、大澤君が、私のほうが努力して複数・多様な討論者を用意してくれと返す。
夢の中の私達は議論がQのペンネーム問題に関する議論を反復していることに気付いている。今私達は、アーティスト(ではなくアクティヴィスト)のように、自由に自分の名前を名乗っていいではないか、という主張(大澤君のものと夢の中ではされている)について議論している。私が、例えばサラリーマンなどとアクティヴィストの相違を指摘し、労働者はいわゆる本名、実名を名乗る場合が多いが、そこには社会的信用の問題などが介在している、と語る。サラリーマンなどは、仕事をしており、フリーライダーたることが許されないから、本名、実名で仕事をしている。それに対して、アクティヴィストの多くはボランティアの領域で仕事をしている。アクティヴィストが自由に自分で付けた名前を名乗れるのにはそういう背景があるのではないか、と私は指摘する。それに対して大澤君が鋭く反論し、私は苦吟する。ここで目覚める…。