大澤信亮「復活の批評」

id:nobuakiohsawaの「復活の批評」を読んだ。同意できなかった。柄谷行人個人のレベルとNAMという運動体を混同し、NAMを文学、批評、文壇の枠組みの中で斬っているようにみえるが、そんなことをして何になるのか。
NAMには無論、困難があった。が、それは、文学的なものではなく、政治的、経済的なものである。生産協同組合を立ち上げられない、生協やフェアトレードの商品を買う金がない、地域通貨を立ち上げても広がらないなどである。
NAMが解散して約10年だが、NAM組織消滅後も、NAMであろうとしている個人の存在をid:nobuakiohsawaの批評は忘れている。彼にとって問題は、柄谷行人だけなのだ。しかし、柄谷行人を批判することと、NAMを批判することは、別である。或いは、原理的に別であるはずである。
NAMという運動についていえば、社会運動を文芸批評の原理で斬れると思っている時点で間違っている。運動は運動内在的に批判されねばならない。