悪魔の経済学

宇沢 実は、一九七三年九月一一日、私はシカゴにいました。あるパーティに出ていましたが、アジェンデ虐殺のニュースが入ったとき、フリードマンの流れをくんだ市場原理主義者たちが歓声を上げたのです。私は以後一切シカゴ大学とは関係しないと心に固く決めました。そのほぼ三〇年後、二〇〇三年九月三日、イラクに一応独立国としての体裁をもった暫定政府ができて、国営企業はすべて原則として民営化して、金融機関はアメリカの金融機関が支配する。ただ石油だけは国有のまま残す。イラクでも全く同じことが繰り返されるこのパターンは、チリに始まってアルゼンチンなど世界の多くの国に輸出された。これは内橋さんのご本『悪夢のサイクル──ネオリベラリズム循環』(二〇〇六年、文藝春秋刊)に詳しく書いてありますが。(宇沢弘文内橋克人『始まっている未来 新しい経済学は可能か』岩波書店、p16-17)

宇沢 いまの経済学は、これまでのケインズとも違うし、あるいはマルクス経済学とも違う。経済学の原点を忘れて、その時々の権力に迎合するような考え方を使っていて、その根本にあるのが、やはり市場原理主義というか、儲けることを人生最大の目的にして、倫理的、社会的、あるいは文化的な、人間的な側面は無視してもいいという考え方がフリードマン以来大きな流れになっている。
その考え方がどういう性格を持っているかというと、私のシカゴ大学の後任者にB教授という人がいるのですが、彼はフリードマンの思想を極端な形でつないでいった人です。その一週間ほど前、家に帰ると奥さんが十三階の屋上から飛び降り自殺して雪の上に横たわっていた。まだ温かかった、と。それで彼は次にこう言ったんですね。「今度自分は自殺の経済学をやりたい」。彼の理論──それはフリードマンの理論でもあるのですが──ですと、奥さんは彼と一緒に生活する時の苦痛と飛び降り自殺した時の痛みを比較して、自殺したほうが痛みが少ないから合理的に自殺を選択した、と。さすがのフリードマンも、その時はじっと黙ったままでした。
内橋 日本の労働経済学者も同じようなことを新聞紙上で語っています。ワーキングプア、そして派遣切りなどの深刻な社会問題について……。後に少し触れたいと思いますが、内閣府特命顧問(雇用対策担当)として、小泉構造改革で労働政策にかかわった島田晴雄氏など。この人たちの当時の労働政策が、今日の極めて非人道的な労働破壊に繋がっている。
宇沢 B教授は事実、それからしばらくして『自殺の経済学』というモノグラフを出版します。「教育の経済学」というのもある。大学に行って一生の生涯所得がどれだけ増えるか、大学に行くことによってどれだけ所得を得る機会を失うか、それと授業料なども考慮に入れて、儲かるのなら大学に行く。コストのほうが大きかったら行かない。これがB教授の「教育の経済学」。もう一つ「犯罪の経済学」もあって、それは、人を殺した時の楽しみと、捕まって死刑になる時の痛みを確率論的に比較して、殺す楽しみが大きければ殺し、ペナルティが大きければ殺さない、それが「犯罪の経済学」です。それはちょっと恐ろしい考え方であり、人間観です。しかし、この極端な、悪魔的な考え方が、市場原理主義の根幹を貫いていることを忘れてはならないと思います。(宇沢弘文内橋克人『始まっている未来 新しい経済学は可能か』岩波書店、p98-100)