どんなときも、どんなときも。

2ちゃんねるで攝津は躁転したとか書かれてるが、躁の時も鬱の時も、「一億兎を同時に追う」「1000×1000×1000のwebsiteを作る」「月産1000枚」等の方針は変わらない。誇大妄想だろうか。自己を過信し過ぎ? 芥川賞ノーベル文学賞が欲しいとTwitterで書いたら、「小説を書いたらね」とツッコミが入ったが、まあ常識で考えればそうだろう。
ところで今日はずっとレニー・トリスターノを聴いているのだが、何処か苛々する音楽だ。前、タニケンと話していた時、俺が「トリスターノって重要?」と愚問を発し、タニケンから馬鹿にされたことがあった。「重要に決まってるでしょ」って。そうかもしれないが、トリスターノの音楽、難しい。例えばセシル・テイラーも難しいが、それとはちょっと異質の難しさだな。専門家や評論家はもっと的確に表現できるのだろうが。
俺は哲学者なんだが、誰からもそう承認されない。理数系に弱い哲学者だなんて、三文の値打ちもない! ってか。まあそうかもしれないな。まあ、ヘタレ人文系に限定しても俺の教養は貧しいのだが、それでも、万巻の書物を読破しようとしている。百科全書的知識の蓄積を目指す。これもまた、誇大妄想か。そうかもしれないね。
哲学者には体系がないといけないんだろうか。或いは概念的な思弁ができないといけないんだろうか。だったら俺は哲学者失格だな。攝津哲学など、下らぬ詰まらぬ人生観でしかないからね。
とりとめがない話に終始したが、何分俺は意味不明性人格障害、支離滅裂性人格障害なんで勘弁してもらいたい。ではね。