ポストモダン的にいえば

人間本性(人間的自然)=human natureは可変的であり、どこまでも変容、変態しうるものであることになる。だが、身体という唯物的基礎は残る。どんな遺伝子操作やサイボーグ化を推進しようと、元々の土台となる身体は前提される。
ちなみにドゥルーズが目指したのは、自然と人工の境目がなくなるような時代における自然哲学、だった。それはもはや、「自然」哲学ではないかもしれない。『アンチ・オイディプス』のようなものがそうだが、それは直接に、初期マルクス自然主義人間主義を継承している。