希死念慮

母親にも話したが、死にたい。死にたい気持ちは親にも理解されぬ。親は、何故死にたいのかと問うてくるが、端的に苦しいからとしか言い様がないのである。親は暗に、同性愛が抑鬱の原因ではないかと仄めかすのだが、今となっては、もうそういうレヴェルの話ではなく、人生総体に対して、何の意味も希望も見出せずにいる。だから早く死にたい。楽に死にたいとしか思えぬ。生きていても何の良いこともあるように思えぬ。それはもうほとんど確信である。もう何の喜びも楽しみもないと思う。だから死にたい。私の気持ちはシンプルである。死にたいと言うと、親は、精神科に入院させるとか非現実的なことを言うのだが、単に死にたいと願望しているだけで、何故入院などできるのか。死にたいのは症状、病状ではない。単に私の願望であり欲望である。更に言えば思想信条である。人生は苦痛にして無意味なりという。だから、私は或る意味病気ではない。ただひたすら死にたいだけの人である。生きている意味なし、生きる価値なし、である。私は他人のためになりたい、社会貢献したいという気持ちが一切ない。もう他人や社会と関わりたくない。もう早く楽になりたい。自己実現などしなくていい。有名になどならなくていい。もうただ、早く楽になれたら。この終わらない苦しみから解放されたら。どんな薬物もこの苦しみを和らげぬことを、もう私は知ってしまっている。どんな医療も無意味なことを。だからもう、死にたいのであり、この意思は変わらぬのである。だが死ぬ勇気がない。繰り返しているように。だから死の願望は願望のままに留まるのであり、どうしようもないのである。私の生存はゴミ屑のように無意味で無価値である。生きることに意味はない。だから生きるのを辞めたいのに生存を強制されている。生存が義務化されている。私は安楽死したいのに。私の意向など誰からも無視され、生きることを強制される。(中断)