虚無主義な私。(2010/12/14(火))

日中は鬱気分が続き、塞ぎ込んでいる。遂に母親に打ち明けた。病気は少しも良くなっておらず、悪くなる一方だということ。医者を変えたいが、紹介状を書いて貰うのに必要なお金がないこと。そもそも、良い医者が何処にいるのかも分からないこと。そして、津軽三味線やスタンダード、歌もの、演歌・歌謡曲等には興味が一切なく、社会的には承認、認知されない自由即興演奏にしか関心がないこと。私は、斎藤環の『「負けた」教の信者たち ニート・ひきこもり社会論』を借りてきて読んだが、私も「負けた」教の信者であり、将来的に自殺とか自滅的な行動しかないように思う。餓死は苦しいだろうが、どうしようもないかもしれぬ。動き出す、働く気は一切ない。状況を変えるためにどうにかする気持ちはない。金が尽きたら死ぬ。もう稼ぐ気持ちもないし、意欲そのものが根本からなくなっている。もう「社会参加」も「社会復帰」も「就労」も何もかも御免である。ただただ、もう厭だという嫌悪感しかない。社会なり他者に関与することへの拒絶感しかない。ひきこもりたい、もう他者と関わりたくない、働きたくない、そのような否定的な感情しかなく、そして深く抑鬱的・鬱気分であり、本当に心から死にたい(希死念慮)。私は、自分自身のことしか考えていないし、そしてその自分自身に関して、何の希望も持っていないのだ。私の音楽や文章が突如、売れるということはあり得ないし、あり得ないことを夢想していても仕方がない。しかも、文章にせよ音楽にせよ、同じことの繰り返し、反復に過ぎぬではないか? 自由即興と言いながら、「新しい」要素はほぼ皆無、毎日同じことの繰り返し、これでは駄目であろうが、私にはこれを続ける以外の選択肢がない。端的にいえば私は駄目人間であり、以前からそうだったし、今後もそうであろう、ということだ。死がこの喜劇を終わらせるまで、私は変わらないし変わる気持ちもない。精神科医も宗教家も私を救えない。何故なら私には、信頼も信仰も何もかもが欠けているのだから。私にあるのは、一般化された不信の感情のみである。拒絶の感情のみである。だから、治療も何も上手くいかない。停滞し、行き詰まっている。これは地獄だ。だが、自ら選び取った地獄なのだ。抜け出せないし、抜け出す気もない。脱出は、死あるのみであろう。私には、死は魅力的な選択肢に映る。死ねればどんなに楽だろうかと毎日自問する。だが、ああ、死ぬ勇気がない! それだけが問題だ。こんなに生を嫌悪し生を否定しているのに、なおも生きねばならぬという、生存が義務であるという苦痛! こんなことを言うと、生きたいのに生きられない人に申し訳ないとも思うが、しかし、私と貴方の苦痛を交換することはできぬのである。私は私の苦痛だけを生き、それだけに関心を持つ。私は、端的に、死にたい。だが、苦痛なく死ぬ方法が見当たらない。餓死は苦しいであろう。だが、どうしようもなくなったら…。そう堂々巡りしているのである。