Philosophy / Queer / Jazz

バトラーを研究されている方とTwitterで言葉を交わして、考えたこと。ジュディス・バトラーは積極的にオースティンの言語行為論を参照しており、その方がおっしゃるようにそれがジャック・デリダから来ているとしたら、デリダそのものを勉強する必要がある。
確かに、『グラマトロジーについて』や『声と現象』の、パロール/エクリチュール関係は、バトラーのいうセックス/ジェンダー関係とそのまま相似的であるようにもみえる。セックスは常に既にジェンダーであり、社会的に構築されたものである、という主張は、声への文字の先行性を説くデリダそっくりだ。
ただ、ミシェル・フーコーの『自己と他者の統治』においては、フーコーは彼のいうパレーシア概念をオースティンの言語行為論ともデリダの主張とも異なるものとして強調している。フーコーは、デリダが『狂気の歴史』への脱構築的(批判的)批評を書いたごく初期以来、自覚的にデリダからは距離を取っているようである。「フランス現代思想」などと言っても、決して一枚岩ではないのだ。
話は飛ぶが、クィア映画を撮り、クィア文学を書きたい、という気持ちがある。先立つものがないのだが(笑)。映画に無知なのだが。創造したい、という気持ちが強い。
また話が飛ぶが、ジャズにおいてクィアを考えることができるか、ということも考えてみた。結論からいえば、それは難しいということだ。ごく最近まで、ジャズにおいて女性は侮辱され貶められてきた。「ジャズメン」という言い方が一般的だったように、女性のジャズ・ミュージシャンは例外的だったのだ(ヴォーカルを除いて)。ピアニストのユタ・ヒップアート・ブレイキーに侮辱されてジャズ界から引退してしまうなどは象徴的な出来事だろう。他方、近年、若手女性ジャズピアニストが輩出しているが、これまた、固定的なジェンダー規範概念に囚われた現象で、クィア的、ラディカル、脱構築的などとは到底いえないものである。つまり、男性(おじさん)の欲望を満たすような、「若い」「美しい」「女性」の奏者が求められているのであり、これは従来型のジェンダー規範の強化に過ぎない。というふうに考えてみると、ジャズ界におけるクィアという見通しは暗い。ジャズ関係者でゲイ/クィアをカミングアウトした人はいない。平岡正明チェット・ベイカーのことをゲイだと書いているが、チェットはばりばりのヘテロであり、真っ赤な嘘である。あの中性的な声の歌唱が誤解させるのだが。
とりとめがないが、一旦ここで送る。