二和向台サーガ〜攝津家の物語

和太鼓奏者の林英哲とフリージャズピアニストの山下洋輔が共演した『デュオ』をCDウォークマンで聴きながら、徒歩数分の距離にある野瀬歯科医院へ行ってきた。左上の奥歯への金属の詰め物が取れていたので、それを取り付けて貰う。右の上下の奥歯等に紅茶が染みる話をしたら、歯肉炎があるので多分それでしょう、と言われる。会計は1030円。野瀬歯科医院を出て、T字路になっている大通りを横断して、マルエツ二和向台店とミヤマの間にある、船橋三咲郵便局(名前は三咲だが、二和向台にある)のポストで、DMMのレンタルCD二枚を返却した。また横断歩道を渡って、商店街を駅のほうに進み、踏切の手前にあるセブンイレブンのATMでアットローンに13000円借金を返済する。明細によると、「お取引金額13000円、元金充当額6848円、利息充当額6152円」となっていた。取引を済ませて帰宅しようとするが、左足の靴下が歩くうちに脱げてくるので困る。引き上げたら、破れてしまった。これはさすがに、もう駄目だ。捨てて、別のを履くことにしよう。
攝津家の物語というのを書こうと思っていたのだった。元々、テナーサックス奏者の石橋幸雄とピアニストの攝津照子が結婚する(そして、攝津照子が石橋照子になる)ところから始まる。彼らの間に生まれた一人息子が私、攝津正である。母親は重い妊娠中毒症で、出産の半年前から入院していた。祖母の攝津ミキが看病して、病院から帰ると仏壇の前で手を合わせじいちゃん、照子を助けてやってくれ、と祈っていたという。ともあれ、私は帝王切開で無事、生まれたが、幸雄の家庭内暴力などもあり、両親は離婚してしまった。その後、不動産会社に勤務していた吉野孝和と攝津照子が再婚し、二人は攝津姓を名乗ることとし、攝津孝和、攝津照子、その子供攝津正、ということになった。石橋幸雄と最後に会ったのは、小学生の頃だったと思う。彼は私に、空手の本と広辞苑をくれた。当時、私は空手を習っていたのである。
十年以上が経ち、母親の攝津照子は、石橋幸雄の消息を八方手を尽くして探したが、見つからなかった。最終的に、もう数年前に死んだらしいという情報がもたらされた。私は、実父とほとんど交流することのないまま、知らぬ間に実父を亡くしてしまったのである。そのことは淋しいが、致し方の無いことであるとも考える。攝津家の三人は、当初大分県別府市大分市で暮らしていたが、私が中学校に上がる時、千葉県に引っ越してきた。最初は、船橋市の、高根木戸という街の借家に住んでいた。が、大家から、飼っていた犬、チロを殺処分してくれと言われ、別の住居を探した。そして、今住んでいるこの二和向台の二階建ての店舗住宅を裏の倉庫と共に買い、二十年余が経った。そして今に至る。
今に至るまでには、本当にいろいろな苦しいことがあった。だが、それを全て、詳細に語るというわけにはいかない。思い出したら、また語ることにしよう。とりあえず、今日はこのくらいにしておこう。