認識の切断面

後藤さん(id:eaglegoto)、新著楽しみです。出たら、読ませていただきます。
個人的には、フーコー(認識の切断面)に興味があります。『言葉と物』のエピステーメーという議論との関連でしょうが。
偶然ですが、私もフーコーを読んでいます。但し、『言葉と物』ではなく、最晩年のフーコーです。『ミシェル・フーコー思考集成』の9と10、そして中山元の『賢者と羊飼い──フーコーとパレーシア』などを読んでいます。

ところで『言葉と物』の「知の考古学」的発想そのものが美学から来ているという議論があることをご存知でしょうか。岡崎乾二郎さんのRAMというグループにかつて属していた時、そのような議論を読みました。具体的には、ヴェルフリン(http://bit.ly/9OHPas)、ヴォリンガー(『抽象と感情移入』)などです。
フーコーには幾つか源泉があります。その一つは、バシュラール、カンギレム、アルチュセールなどの科学認識論(エピステモロジー)の「認識論的切断」という概念です。先ほど言及したのは美学的源泉です。
ヴェルフリンやヴォリンガーによれば、美学は様式の継起の研究であり、カント的批評(個人の主観的判断に根拠を置く)と対立するものだといいます。乱暴にいえば、批評はカント的、美学(様式の継起の歴史)はヘーゲル的なのです。
カント的判断力は、美しいものの形式(形態)を純粋に観照=鑑賞し、主観の諸能力との関係で美/崇高を感取します。そこからは、その形式(形態)──様式、スタイル──そのものの歴史性という問い、さらには、感性=美意識そのものの歴史的限定という問いは出てこないのです。カントの判断力批判では芸術作品は扱われておらず、自然美のみが問題だったため、歴史性ははじめから問題にならなかったのです。

ジャズでいえば、ニューオーリンズジャズ等アーリー・ジャズ→スウィング→(中間派)→ビバップ→ハード・バップ→ファンキー→モード→フリー→それ以降、などもろもろのスタイルの継起、それぞれの合理性のありようの研究ということになります。それはそれで魅力的だし、フーコーに触発されてというのも自然だと思うのですが、私が少し疑問に思うのは、ジャズそのものが百年余の歴史しか有していないということです。フーコーエピステーメーなどはもう少し長い歴史的、時間的スパンで考えられているのではないか、と思いました。乱暴にいえば、もろもろの多様なスタイルはあるけれども、ジャズという営みはまるごと「近現代」の範疇に入ってしまうのではないのか、という疑問が自分にはあります。
もちろん「西洋近代文学」に対する「日本近代文学」の関係のように、「クラシック(西洋音楽)」に対する「ジャズ」の関係は、前者において長い時間を掛けて生じてきた事柄が、後者においては短期間に圧縮されて生じてきたとも見ることができるわけで、その意味で、短い時間スパンの間の出来事であっても、スタイルの変遷を研究することには意義があるかもしれません。