クィア政治は…

クィア政治はアイデンティティ・ポリティクスに重大な批判を提起するものであるけれども、クィア言説とアイデンティティ/プライド言説はいずれが正しいという性質のものではない。それはそれが発話される状況や文脈に応じて政治的(抵抗的・対抗的)意味を持つのである。
ということで、批判しておかねばならないと思うのが、アイデンティティ・ポリティクスを擁護する論者達の、日本にはクィア主義はまだ早い、時期尚早であるという言説である。それは、ゲイ(を含めたLGBTIAQs全般)とクィアの連続性を見落としている。日常言語のレヴェルでは、自己を同性愛者として規定する人がクィアを自称していたり、逆に、ゲイという用語が広義に使われることがある。それらの語りは決して「誤り」であるわけではない。錯綜した日常言語状況において、特定の場面、状況、文脈でそのような語りがなされるというだけである。
クィア政治を批判するアイデンティティ・ポリティクス論者の言説は、かつての左翼の「二段階革命論者」を想起させる。それによれば、日本においては近代化、ブルジョア革命もまだ十分なされていないから、革命戦略はまずブルジョア革命を遂行し、次いでプロレタリア革命に着手すべきだとされたのであった。しかし、用語を正しく理解しているか自信がないのだが、私は、生政治ならぬ性政治においても、「小ブル急進主義」的であるべきだと思うのである。それが観念的であるとか現実に合致していないというのは批判の理由にならないと思う。何故なら、クィア言説はそのような現実を変革しようとするのであるから。