白旗男

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以前後藤さん(id:eaglegoto)と議論して白旗を掲げて降参したものです。

われわれは協同して、音楽美学、批評理論の確立に尽力すべきだと思うのです。com-postもその一例だと思います。いーぐる連続講演も。
後藤さんが参照するメルロ=ポンティ現象学も、netjazzさんが挙げたカントも、私が以前、言及したプラトン記号学(ここではドゥルーズの『シネマ』におけるようなものが想定されています)もそれぞれに参考にするのがいいと思います。

問題は音楽に多様なジャンルがあり、それを貫通、横断する超越的な美の価値というものがあるのかどうか、ということだと思いますが、これは難しい。クラシックとJ-POP、ジャズと純邦楽を同じ土俵で論じることができるでしょうか。(私はピアノを少し弾くとともに津軽三味線も弾きますから、ジャズと邦楽の相違については実感的に或る程度分かるつもりです。)

余程時間とお金がある人でなければ、「全て」のジャンルに精通することなどできない。私自身は、ジャズを選択し、それ以外の音楽に精通しようというのは諦めてしまいました。そのジャズにしたって、サラリーマン諸氏に比較すれば私の収入は微々たるものですから、コレクションは貧弱で、現代のジャズを十分納得いくまで追えていません。

この状況は程度の差はあれ、文学や美術にもいえるのではないでしょうか。純文学とライトノベル、現代美術と漫画を同じ土俵で論じられるだろうか、という問題です。
ドゥルーズの『シネマ』は映画総体を扱っていますが、多くを切り捨てています。例えば、クリント・イーストウッドも入っていないし、宮崎駿も入っていない。実際には、一定の偏向した趣味、審美眼に依拠しているのではないか、と推察します。

有限な存在である人間、個々人は自分の知っている範囲のことを、自分の熟知した概念装置で語ることくらいしかできないのではないでしょうか。