対談と誤解

ミシェル・フーコーが来日した時も、フェリックス・ガタリが来日した時も、吉本隆明は対談している。しかし、いずれの場合も誤解と先入観が先に立つという感じだったと記憶している。
吉本はフーコーを絶賛していたが、それはフーコーが『言葉と物』でマルクスを相対化したからというだけの理由で、『狂気の歴史』以来一貫している社会権力のテーマ系には関心がない。
また、ガタリに「駄目出し」したのはガタリがまだマルクス主義を引きずっていると吉本が判断したからだが、ガタリの主張のほうが正論である。南北問題は存在するし、エコロジーの問題もある。スターリニズムでないとしても左派的課題が消滅したわけではないのだ。
ところが吉本の場合は、反「反核」、反「反原発」だから、技術の発展が問題を解消すると考えられている。しかしそうなるという保証はどこにもない。
吉本は『わが「転向」』で転向したかもしれないが、ガタリフーコーと共に最後まで戦おうと約束していた間柄であったという。消費社会に至って資本主義が変質したのは確かで、フーコーもインタビューでそれに触れている。それまで知識層だけのものだった自分達の本が、一般大衆に爆発的に売れるようになった。「パン菓子のように売れるフーコー」と呼ばれた(『言葉と物』の時)。その大衆消費社会状況を目の当たりにして言説実践スタイルを再考したそうである。
吉本は、高度資本主義社会においてそれに適応している大衆のイメージ=マス・イメージに同一化したかもしれないが、ドゥルーズは「民衆が欠けている」と語った。

一旦ここで送る。