現代のアナ=ボル論争

『帝国』で印象的だったのは、ネグリ=ハートが、私達はアナーキストではない、コミュニストだ、と強く主張していたことである。しかしながら、その主張の内容を見ると、デヴィッド・グレーバーのようなアナーキストネグリ=ハートのようなコミュニストの間の差異はそれほど大きくない。問題は彼らと、ジジェクのようなコミュニストの差異だ。
アナーキストと名乗ろうとコミュニストと名乗ろうと、多数多様性の承認と推進というプロジェクトに加担しているのであれば、同じポストモダン左翼である。ジジェクらはそれを批判して、敢えて教条的なマルクス主義レーニン主義を主張している。
私はといえば、グレーバーやネグリ=ハートらに賛成だ。キリストよりも聖パウロマルクス(やエンゲルス)よりもレーニン、というジジェクの選択はアイロニーに満ちている。それは「毒」としてしか機能しないのである。
今日の状況で、大文字の共産主義者的或いは左翼的政治が成立し得る、つまり命を投げ出すに値する大義が存在すると考えることは私にはできない。そのように考えられるのは、自爆攻撃を行う原理主義者=イスラム復興運動だけだろう。だが、イラクの「レジスタンス」やアフガニスタンタリバーンを無条件で革命的だと看做すことはできない。現地の状況はもう少し複雑である。複雑な情勢や微細な差異ばかりを見ていては「大義」のために闘えない、それはそうだ。だが、それは状況や差異を見なくていいという言い訳にはならない。