生存は無意味にして苦痛なり。

生存は無意味にして苦痛なり。
私の第一の主張だ。というか、唯一の主張でもある。
私の生には何の意味も価値もなく、ただ単に苦痛である。無意味に苦痛が継続する、その中での生の倫理、生態倫理を私は求めてきた。生の無条件肯定とは、生存の苦痛の肯定、受苦の肯定も含む、と思う。
日常の快楽は、老母と仲良く手を繋いで近所のスーパーに買い物に行くこと。私は両親が四十歳の時の子供だから、親はもう七十四歳である。正直いつまで元気でいられるか、生きていられるか、分からない。いつ死んでもおかしくない年齢だ。濃密に共依存的でベッタリくっついた密着型の母子関係、「一卵性母子」型の母子関係が維持され得なくなる日もやがてきっとやってくる。その時、母親が死ぬ時、私は生きる根拠を、この世界に属する理由を失う。母親が生きているから、というのが私の唯一の生きる理由だからである。母親が生きている間は、どんなに辛くても、屈辱的でも、生きていなければならない。私はそう思ってきた。