自己価値創造

ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』に、公的教授と私的思想家という対立概念が出てくる。公的教授とは、『差異と反復』の註では「哲学労働者」と呼ばれていたもので、カントからヘーゲルに至る(そして、現在においても多くの哲学者がそのようなありようで日々の生活の糧を得ている)大学教授としての、国家公務員としての思想家のことである。それに対して、私的思想家とは、ニーチェキルケゴールのような存在である。
しかし、それにしても、そのようにして食っていくか、生活・生存していくかという唯物的な(笑)問題が残る。ニーチェには援助者がおり、キルケゴールには遺産があった。スピノザがレンズ磨きで生計を立てていたというのは伝説で、実際にはパトロンがいた。
前にもどこかで書いたが、『アワーミュージック』の渋谷慶一郎が、音楽家が食っていくには、大学から生活を保障してもらうか、超有名になるかしかない、という意味のことを書いていて、私はそれは物書きの世界でも同じだと思った。大学に就職すれば食える。批評家では食えない。私の友人らもこの問題にぶち当たって苦闘している。そして勿論、私自身も!
ネグリ=ハートが自己価値創造と呼ぶ営みに関わる全ての人間に共通する課題だと思うが、己の求めるものを追求しつつ、いかに生活していくか、食っていくか。熟考せねばならぬ。