POP哲学

私がなんでミルプラが好きかといえば、ドゥルーズ自身いうように「ポップ哲学」だからなんだが。そのへんが逆に、プロの哲学研究者から侮蔑される原因になっているようにも思う。分かりやすく面白いポップ哲学なんか哲学じゃない、みたいな。でも、ドゥルーズのいうポップ哲学というのは、通俗化、大衆化とはまた違うんだけど。『差異と反復』の序文でも縷々書いていたように、旧来の書き方で哲学書が書けない時代になった、SFを書くように書かねばならないという意識から、『意味の論理学』のセリー(系列)という実験、ミルプラのプラトーという実験がなされたと考えている。
フーコーも語っていたように、突如、膨大な読者層が出現する時代になった。ハッピー・フューに向けて書いていればそれでいい時代じゃなくなった。それでどうするか? フーコードゥルーズドゥルーズ=ガタリ)共に向かったのが、一種の新機能主義、プラグマティズム(彼らなりの)、「概念の道具箱」の実践だったと思う。フーコーで言えば『監獄の誕生(監視することと処罰すること)』や『知への意志』、ドゥルーズドゥルーズ=ガタリ)では『資本主義と精神分裂症』。そこでは断片が真に断片になり、どこから入ってどこで出ても良くなり、強度的読み方が可能になる。使えるか使えないか、それが全てだ。機能するか機能しないか。

監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰

知への意志 (性の歴史)

知への意志 (性の歴史)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

差異と反復〈下〉 (河出文庫)

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

意味の論理学 下

意味の論理学 下

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス

アンチ・オイディプス

千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症

序でに言えばドゥルーズ=ガタリの『資本主義と精神分裂症』(『アンチ・オイディプス』&『千のプラトー』)の画期性は、精神分析批判(フロイトラカン主義批判)だとか、二人で書いた複数性だとかにあるのではなく、それまでのドゥルーズ単独著作では具体的に分析、記述されることのなかったマルクスマルクス主義マルクス経済学etc.)の導入だと思う。テキストに、初期(経済学・哲学草稿)から晩年(資本論や経済学批判要綱)に至るまでの、マルクスマルクスエンゲルス)の引用が散りばめられる。
ただ注意せねばならないのは、ドゥルーズ=ガタリ近代経済学からマルクス経済学に転向したベルナール・シュミットを中心に論を展開していることと、『千のプラトー』ではジェヴォンズの限界効用革命を肯定的に論じている点だ。また、彼らは、欲望、主観性という観点からケインズケインズ主義)を評価している。使用価値や効用などを非学問的、非科学的なものとして排斥する教条的なマルクス主義経済学者の姿勢とは全く違うのだ。
晩年のドゥルーズは自分はマルクス主義者だと述べたが、それは半ばは本気、半ばは皮肉と捉えるべきだろう。