ヘーゲルからマルクスを読む

って戦前戦後の或る時期まで日本のスタンダードだったんだけど。柄谷行人はカント的批判(批評)に遡行してマルクスを読むという読み方だけれど、珍しい。梯明秀にせよ武市健人にせよ、ヘーゲルの『大論理学』が分かってないと厳しい。
ところでヘーゲルって古今東西最も難解な哲学者だと思うんだが。私は、デカルトスピノザは理解している自信があるが、実は理解していないのかもしれない。数学も知らないし、ラテン語も読めないから。デカルトの哲学革命は数学の刷新と軌を一にしているし、デカルトの『省察』やスピノザの『エティカ』はラテン語で書かれている。俗語(フランス語)で書かれた『方法叙説』だけを読んでいても、デカルト主義もスピノザ主義も分からない。
スピノザについては分厚い注釈を買ったが、読んでいない。フランス語なので。マルシアル・ゲルーともう一人、名前失念。今スピノザ研究で著名な人。『ヘーゲルスピノザか』の著者。
ヘーゲルを理解するにはまず、ドイツ語の学習から始めないと駄目かなあ。
マルクスを理解する目的だけなら、ヘーゲル理解は必須ではないかもしれないけれども。どうなんだろうか。
マルクス唯物論というのは、ヘーゲルのような神の論理ではない、ということだと思うので、資本論ヘーゲル的表現に媚を売って書かれているとしても(修辞として)、内容理解には問題ないかと思うのだがどうだろうか。
ネグリスピノザマルクスを繋げているがヘーゲルも随分入っていると思う。ネグリジジェクも理解するにはヘーゲル理解が前提だと思える。
関係ないが、マイケル・ハートの『ディオニュソスの労働』、早く読みたいなあ。英語で読めばいいでしょうという話なんですが、もう原書買わなくなって随分経つ。金の無駄と悟ったから。外国語を辞書を引き引き読むほど私は豆じゃない。ずぼらな人ですよ。でも学問の世界も表現の世界もずぼらでは駄目なんだよなあ。豆じゃないと。神は細部に宿る(笑)。

ヘーゲルかスピノザか

ヘーゲルかスピノザか