共同体(Community)の問い1

NAMでは、一旦伝統的共同体から切れた(=自由な)諸個人が、自立的な「契約」を通じてassociationを形成すると説かれていた。最近の柄谷行人は、中間団体を重視し、人は共同体の中で個人として自立するのだと考えているようである。ここには大きな考え方の転換がある。
NAMにおいて、特に関西の水谷宏明さんなどが中心に、共同体を怖れるなと主張していたことを思い出す。しかし、共同体(Community)は怖れなくてもいいものなのだろうか。
私が思い出すのは、OCCUR(動くゲイとレズビアンの会)の理論部会で、河口和也さんが中心になって、「ゲイ・コミュニティ」をどう考えるかという問題提起をしていたのに参加したことがあることだ。「コミュニティ」という横文字には馴染みが薄く、親しめない。具体的にそれをどう考えればいいのか?というようなことが話題になっていたと思う。
ゲイの、広く言えば性的少数者(sexual minority, LGBTIAQs, queer)の共同体(Community)というのは露骨にいえばセックス以外共通項のない、或いはセックスさえも共通項のない異質な者らの集まりであった。新宿二丁目は夜の歓楽街だが、経済、経営、生活などにまで関係するほどに至っていない。それがアメリカのカストロ・ストリートなどとの違いだと言われる。勿論、アメリカのコミュニティも、ゲイ中心主義、WASP中心主義など問題があるわけだが。
共同体は拘束的で排他的であり、開放的、歓待的ではない。それは自らの特異性を共有しない者に対して寛容ではない。だから、多層的な、multi-LETSにも対応するような、多次元的なassociation(s)が求められた。それは勿論、想像的なもの、虚構であるが、一つの特異性を共有しない者らが繋がれる場としてある。
NAMは、特に『NAM原理第2版』や『トランスクリティーク』初版に書き込まれているmulti-LETSを重視した組織原理において、明らかにそのようなassociation(s)を目指していた。しかしそれは、不可能なものとして放棄されたのである。理由はいろいろあるだろうが、それは一つの特異性に閉じているもろもろの共同体が、associationへの自らを開く動機がないからではないかと思われる。功利的にいえば、そうしたところで自分らの運動が得をするのでなければ、そのようなassociationに参加する意味はない。