nation

実際はバラバラな人々の想像的な紐帯であり、且つ死を意味付けるものとしては、gay communityや広くいえばLGBTIAQs、Queerのcommunityにもnation的なものがあると言うべきだ。実際、Queer Nationという団体があったと記憶している。
共同体(community)は贈与を交換原理とし、拘束的であるのに対し、associationは契約によって成り立ち、出入りが自由であるとされていた。communityは「常に既に」所属してしまっているものであるのに対し(民族や家族)、associationは人工的である。民族なり家族も人工的、言い換えれば想像的で構築的だというのが基本的な論点なのだが、われわれの日常生活においてそれは見えなくされている。例えば漱石がそうであったように、取り替え子の可能性は幾らでもある(あった)わけで、今この民族この家族に所属していることは偶然的、籤引き的であると思うべきだ。だが、なかなかそうは思えないのである。私もそうは思えない。
AIDS禍以降のgay communityは、死を意味付け、死者を記憶する場になったのだから、nationではないか。nationという言葉を肯定的に使うべきか否か、迷う。
LGBTIAQs、Queerの間でも、同性婚カップル化の方向に進む人と、むしろ近代家族解体に進む人がおり、路線は様々である。