絶望の教室

「明晰な自己認識と、深く静謐な悲しみと」(http://d.hatena.ne.jp/femmelets/20100528#1275025744)で書いたのは、自分の人生が不毛で悲惨だということだ。それもずっと以前から、恐らく自己意識を持つようになった幼年時代以来ずっとそうであり、今後も私が生きている限り不毛と悲惨と苦痛が継続するのみだということだ。
私は回避性人格障害http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E9%81%BF%E6%80%A7%E4%BA%BA%E6%A0%BC%E9%9A%9C%E5%AE%B3)であるが、薬物療法は余り効果がなく、精神療法(カウンセリング等)は高額で受けられない。何というか、生の総体が病んでおり、不毛で、不治であるという実感がある。NAMにいた頃、ゲイでデリディアンの人から、「絶望の教室」と呼ばれたが、NAM以前もNAM以後も、私は「絶望の教室」であった。幼い頃からそうだったし、14歳で(1989年)精神病を発病してからもそうだったし、インターネットで日記をつけ続けたこの10年間もずっとそうだった。いろいろ試みたり努力してはみたが、私は結局、社会に不適応であり他者と協調できなかった。だから35歳の今(2010年)になって、自分自身の家族、家庭に生涯ひきこもらざるを得ないという結論に至った。賃労働も社会運動も無理であり、他者や社会等と関わること自体を断念せざるを得ない。賃労働もできないし起業や自営も無理だ。株式投資も独力ではできず、単に親の指示で株価検索したりすることしかできない。音楽にしても、毎日ジャズを聴いているが、聴いたものを自分の演奏に反映させることができない。文筆にしても、作品としての論文なり小説などを創作するのは不可能である。能力的に。
そう考えてくると、自分自身の無能と不毛を実感せざるを得ず、それに耐え続けねばならないと結論づけるよりほかない。自分苦を苦しむよりほかない。自分自身以外の者にはなれないのだから。ニーチェ的な快癒、喜びは訪れない。私は単に、絶望的であり、どうしようもないというだけだ。人生の総体が病んでおり、治癒はあり得ない。苦しみを軽減することもできない。他人に関わることもできない。自己閉鎖、ひきこもりを続けるしかない。