他者の痛みが分からない

彼らは私のことを、沖縄県民(等、他者、マイノリティ)の痛みが分からないと非難・糾弾するが、彼らには人格障害等で苦しむ私達の痛みが分からないじゃん。
私は惰民とか自分苦等を提唱した時から、「自分自身の抱える問題で苦し過ぎて他者を思いやる余裕がない」状態、倫理的であろうとしても倫理的になれない状態、自分のことで一杯一杯な状態のことを語ってきたわけだが、それが罪なのだろうか。社会運動の常識や前提を共有しないことがそんなに非難に値する?