戦争反対コミュニティに書き込んだこと
反論トピックで哲学の話題が出ていたので、(元)哲学屋として一言。
私はデリダの哲学はよく知らない。だから、脱構築主義者でもない。
私はドゥルーズを研究していたが、彼に同意しているわけでもない。ドゥルーズは議論、コミュニケーション、市場に反対しているが、私は賛成している。ドゥルーズは本物の哲学者、私はソフィストということかもしれない。
自分としては、体系や思弁ではなく、合理性を重視しようと思っている。私は脱構築主義者とかドゥルーズ主義者ではなく、単なる合理主義者・民主主義者・自由主義者だ。
既存の哲学では、アメリカのプラグマティズムに最も親近感を覚えている。合理的であり、実際的であり、より蓋然性の高い仮説に賛成する。
何か信仰のようなというか、宗教的な態度は好まない。世俗主義である。
漠然と社会民主主義的方向に世の中が進めばいいなと思ってはいるが、現存の社民党と全て意見が一致するわけではない。社会民主主義といっても、平たくいえば福祉を手厚くということなのだが。
学生時代にフランス現代思想を専攻していたから、大学院を修了して十年以上経ってもまだ、それを信奉しているだろうと言われるのは正直心外である。というか、在学中からプラグマティズムに親近感を感じていた。崇高な「存在」の思索などには興味がなかった。繰り返すが私は世俗的なのである。
合理性、民主性、自由、世俗性、寛容などを主な基準にして判断している。個々に判断している。このコミュニティでもそのような態度を心がけている。
純魔さんの本名が晒されていたのでグーグル検索を掛けてみた。彼は私より、アーティストとして社会的に認知・承認されていることがわかった。その結果は謙虚に受け止めようと思う。ゆきかぜまるさんが彼の絵やイラストが売れないと揶揄しているが、美術に限らず芸術は厳しい時代である。自慢じゃないが、私の音楽などもっと売れていないし、純魔さんはくねくねくらぶというラジオのパーソナリティだったようだが、自分のインターネットラジオは彼のくねくねくらぶよりも遥かに認知されていない。一握りの人しか知らないし、聴かない。とりあえず、自分の卑小さを認めるところからしか、始まらないと思っている。
以上を述べた上で、純魔さんが理の通らない主張をしていると思える時には彼に反対する。