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毎日毎晩、強い不安に襲われる。抗不安剤なども精神病院から処方されてはいるが、頓服を飲んでも全く効かぬ。ただ苦しいだけである。欝、不安、パニックは、他者の視線を気にするところから始まった。それはネット上の、ヴァーチャルな他者でも良かった。その他者の眼差しに怯え、慄き、不安身体症状が出るのである。右肩や鳩尾の執拗な鈍痛。それはほとんど、私の日常生活の一部と化していた。もう何十年も、この苦しみに耐えてきたのだ。だから、今日も耐えるだろう。明日も耐えるだろう。何かの外的暴力によって、私の人生が断ち切られる瞬間まで、耐え続けるだろう。
アーティストとして認められたい、社会的に承認されたいという我儘な欲望が、私の存在のほとんど全てだった。なんちゃってアーティスト(気取り・自称)という奴である。だから私は、自分のホームページの題を、「自称ジャズピアニスト・攝津正 ニートのちから」と名付けた。「自称」を外して単に「ジャズピアニスト」とすることは、幾らか恥ずかしかったからである。だが、「自称」を頭に付けても、その恥ずかしさ、生きること自体に付属するかと思われる恥ずかしさが減じるわけでもなかった。私はやはり恥ずかしかった。自分が今あるように生きていることが、恥ずかしかった。だが私には、他のように生きることができなかった。
浦安の倉庫で働いていた頃には、別にアーティストでなくてもいいではないか、生涯一パートタイマーで上等ではないか、という思念が頭をよぎることもあった。だが、精神病(正確にいえば人格障害)の悪化で、退職を余儀なくされて、言わば私は退路を断たれた。否が応でも、背水の陣を敷かざるを得なくなった。どんなに無理で不可能でも、アーティストとして生き延びるしか、自分には生きる道として残されていない。そう思えた。
その「無理」を自覚していればこそ、死の観念が常に付き纏ってきた。生存が無理なら、自殺は必然だから。だが、私は、死ぬのを常に明日へと延期した。いつかその瞬間、決定的な瞬間が訪れるのを予感しながら、今はその時ではない、と自分に言い聞かせた。この無様な生存を断ち切るべきなのは、少なくとも「今」ではない。私はそう自分に言い聞かせて、瞬間瞬間を我慢していた。そう、単に我慢していた。私にとって生きるとは、我慢することだった。