私の俗物性(スノビズム)

それは芸術家崇拝。
芸術家に憧れるし、表現する人は凄いと思う。具体的に名前を挙げると岡崎乾二郎さんとか橋本一子さんとか。
RAMを辞めてしまったのは惜しいと思う。Q-NAM関係で批判して脱退したのだが、人間関係を切る行為だった。あれ以来、四谷の学校の人とも疎遠になってしまった。
労災事故に遭う前まで、岡崎さんは私のラジオをよく聴いてくれていたのだが、もう数年、ご無沙汰である。私に対して批判的なのか、どうかはよくわからない。
派遣会社で日雇い派遣での労災事故、右肩複雑骨折は、人生の転機だった。習志野第一病院で、長い入院生活、手術、そしてリハビリ…。派遣会社から、解決金が振り込まれたが、私が作った借金は片付かず、倉庫の会社に勤めた。そこで、一年半。私は黙々と単純作業、肉体労働に従事した。仲間もできた。友達もできた。だが、精神病が悪化し、退職せざるを得なくなった。退職は、社会人としての自分の死だと思う。もう、どこからも雇われないだろうと予測する。だから自分でやらなければならないが、やれるのか。最悪、死を覚悟しなければならない、と思うが、どうなるのか本当にわからない。
私が死にたいというのを、両親は全く理解できないようだ。私は光り輝く前向きでエネルギッシュな元気なキャラでないといけない。でも無理。そんなキャラを作って演じるのは、もう無理。両親の思い描く理想の子供のイメージと現実の私がかけ離れており、そのことに両親がいつまで経っても盲目で、今後その関係性が変化する見込みがまるでないという行き詰まり状況。苦しい。だが、この苦しさに耐えて、「生活的宦官」(芥川龍之介)として生きねばならぬ。通常、生存は現実であるのみだが、私の場合、親に対する義務(負債)でもある。そこが他の人と違っている。
長くなった。私が社会的に死んだ日。入浴・服薬して、寝ることにしよう。