『生きる』-31,32

日曜日、攝津は休日だったので、船橋市北図書館に行って本を借りてきた。帰り道、雨宮処凛の事を考えた。雨宮さんには小説家に、願わくば極右に戻って欲しい。何故なら人間の真実は、或いは美は、激越さ、又は痙攣の裡にしか無いからである。雨宮さんは、「新しい神様」から「プレカリアートのマリア」になった。その過程で失ったのは、実存の叫びであり、棘であり、否定性である。雨宮さんは現代日本社会を総体として否定するところから、表現者として自立した。彼女は人の良いヒューマニストではない、正確には、ではなかった。同情で動く人ではなかった。社会そのものの否定を通じて自己を屹立させる、そういう表現者だったのである。攝津は、極右思想を支持する訳では無かった。が、極右の頃の雨宮さんが人間の真実を体現していたと考える。だから、『生きさせろ!』以降の彼女がそれを失ったのを遺憾に思うのである。
三島由紀夫を読んだからこのように考えるのだろうか、と攝津は自省した。三島は表現から行動(決起)へ移行した。雨宮処凛は行動(決起)から表現へ移行した。二人は対照的である。雨宮さんが生の無条件肯定なら三島は死の無条件肯定だ。「生きさせろ」の裏面は「死なせろ」(その為の大義として「天皇」等が持ち出される)だ。だが、それらは表裏一体なのではないだろうか? 抽象的でそれ自体を求める生存要求は、死の要求と裏腹なのではあるまいか? 逆に死の要求は生の欲求なのではあるまいか?
攝津がドゥルーズで関心を持っていたのは、どうしてこの人はここ迄死にとり憑かれているのだろう、という事だった。ドゥルーズ生の哲学ではなく死の哲学である、そこにおいてジジェクバディウらラカニアンは正しい。ドゥルージアンはドゥルーズにおける死の審級の意味を見失っている。だが、デビューから晩年に至る迄死、死の経験(体験)というテーマが彼の哲学を貫く。それをどう考えるのか。

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