適応出来ません。

まず、痛みについて書こうと思った。
左右の人差し指に出来たささくれ、それが酷く痛い。
それと、肉体労働による筋肉痛、これも悲鳴をあげている。
毎日がこれでは、何の営為も出来はしない。
それでも、17時に上がれたのは好運だった。18時まで働いたら、もっと苦しかったろう。契約は契約なので、やむを得ぬのではあるが。

通勤電車内で、『神聖な杜の湿り気を運ぶもの──石田秀実作品集』を聴きながら、三島由紀夫の『鏡子の家』(新潮文庫)を130ページまで読んだ。この小説を読むのは苦しい。三島の、『盗賊』や『禁色』で、退屈に耐え切れず投げ出したことを思い出す。『鏡子の家』も読破出来ず投げ出すかもしれぬ。だが、それとて不幸な出会い方とは言えまい。僕は最初に大江健三郎を読んだのは小学生の頃だったが、理解出来ず挫折した。だがその後、大江はほぼ全作品を読む程好きになった。だから最初の出会いが挫折に終わったからといって、その後の付き合いが不運なままだとは限らぬ。

去年の元旦、今年こそはヘーゲルの『大論理学』とフッサールの『論理学研究』を読破しよう、と誓ったのを覚えている。結果はどうだったか。1ページも読まなかった、否、読めなかった! しん氏が哲学は文学より難しい、と語っているのは真実なのではあるまいか? だが、それはアイロニーを考慮に入れぬ場合だけだ。アイロニーとニュアンスの問題を考慮すると、文学のほうが哲学よりも易しいとは言えぬ。『ソクラテスの弁明』や『方法叙説』のように平易な哲学書もあるし、アランの『幸福論』なんてのもいい。

対決せねばならぬ哲学者や芸術家が、本当に数多く、幾ら時間があっても足りぬ。ドストエフスキーも、フロベールも、ジョイスも、プルーストも、読んでいない! 

僕は英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、古典ギリシャ語を学習しようと思ったが挫折している。

僕は自分の無教養と馬鹿さ加減に我慢ならぬ。馬鹿故の今の厳しい現実がある。

友人知人には文学博士が多い。比喩ではなく、文字通り博士号を持っているという意味だ。彼らの文学論はひどく難解で、僕には少しも分からぬ。具体的には、倉数さん、青木さん、中澤さんだ。彼らのような存在が真の知識人なのだろう。それに比べると、僕などは、亜インテリに過ぎぬ。言い換えれば、贋物に過ぎぬ。僕の知識と教養は薄っぺらで、ないほうがましな衣服のようだ。

僕は毎日書くが内容がない。意味がない。

子供の頃、人生は苦しいと感じていたことを思い出した。だから、自分が子供を作ることは避けようと子供心に思っていた。苦しむ主体をまた一人、この世に増やすことは、非常に罪深いことのように思えた。その子の担う苦しみに責任が取れぬ、そう子供心に考えた。その考えは今も変わらぬ。

僕は今日働きながらはしゃいでいた。今家で、落ち込んでいる。冷厳な現実。何者でもないし、今後何者にもなれぬという現実。欝は現実に根ざしているので深い。適応障害、ヒステリーと言うべきか。現状が僕は我慢ならぬ、だがその現状を生きねばならぬのだ!

不図ホームページを千個作ったら何か変わるだろうか、と馬鹿なことを考えた。結論。何も変わらぬであろう。僕は相変わらず冴えぬ中年メタボの僕であろう。

ミクシィでも、コミュニティに上限千個入っている。そのことに意味はない。同様に、ホームページやブログ等を千個以上に増やしたとしても、意味はないだろう。

意味がない。

単に苦しく、その苦痛が具体的で端的で意味を欠いている。指先の痛み、筋肉の痛み。
苦しみから解放される日は永遠に来ないだろう。