キャンディ

船橋第一自動車教習所でキャンセル待ちで3時間乗ってきた。以降は卒業検定前効果測定という学科の試験に合格しなければ乗れない。卒業検定前効果測定→みきわめ→卒業検定→免許センターでの本試験、という流れである。11月中に取れればいいのだが、と虫のいい見通し。
免許取ったら、毎週日曜日に、老母を後ろに乗せて御滝不動尊まで御参りに行きたいというのが僕のささやかな夢。
TSUTAYAでCD返却し、船橋市北図書館で本を返却し、新たに9冊借りられたのだが、どうしても本を借りようという意欲が湧いて来ず、空手で帰ってきた。今手元にあるのは、鹿島田真希『ゼロの王国』だけ。まあこれも分厚い本だから、これさえあれば、当面の読書欲は凌げるだろうと予測。
リー・モーガン『キャンディ』をCDウォークマンで聴いているが、仮にジャズ批評家を目指すとしたらどう書くだろう、としばらく考えてみた。そして、ライナーノーツも読んでみたが、やはり本職の人は読ませる文章を書いているねえ。僕はとてもじゃないが、読みたいと人に思わせるような文章は書けないや。キャンディについて考えていたのは、奔放でいて破綻がない吹奏が素晴らしい、ということ。リー・モーガンもいいが、サイドメンもいいのだ。僕は最初ピアノがウィントン・ケリーかと思ったが、ソニー・クラークだった。ケリーとクラークを間違えるなんて!それだけでもう、評論家失格。だけど、そのクラークがいいのである。また、ドラムは、フィリー・ジョー・ジョーンズかと思ったが、アート・テイラーだった。このドラムもいい。特に一曲目「キャンディ」冒頭のドラミングのキレの良さなど最高である。『キャンディ』はアヤジーニャ(関根綾)さんがいいよと言うので聴いてみたのだが、確かに何度聴いても素晴らしい。
ところで、純文学というように、純音楽という言い方はできるだろうか。そこにクラシック〜現代音楽を含めるとすれば、ジャズはそこからはみ出る要素を持つということだろうか。純文学という言葉が定義不可能だとすれば、ジャズもそうで、家族的類似性(ウィトゲンシュタイン)によってしか語り得ないのではないか。つまり、「ジャズっぽい」多数・複数のパフォーマンスの、境界が本質的に曖昧な集合としか言えず、しかも、何がジャズっぽくて何がジャズっぽくないかという識別は聴取個体によって揺らぎなり偏向がある。
というようなことを考えているうちに、『キャンディ』を聴き終った(笑)。

キャンディ

キャンディ