ごみ→宝物、或いはその逆

ヨーグルト食い過ぎで腹痛。で二階のトイレに行く途中ふとテレビの後ろを横切ると、TVタックルでも「脱国家的主体」の話がされていたことにちと驚き。
今また一階に降りてきている。
高望みや法外な望みを抱かず、地道に生きていくことが大事なんだと思う。努力もせずに有名になりたいとか、超一流になりたいとか、世界に挑戦したいとか、○○賞が欲しい等と思わず、ただひたすらにできることを継続すべきなのだ。
「お父さんがお風呂入っている間、一階で音楽聴く」と父母に言ったら、父親が「なんで音楽を聴くんだ? ああ、音楽を聴くのはお前の唯一の『趣味』だからな」と嫌味を言った。仕事なり収入、或いは名声に結びつかない限り父親にとってはそれは無価値な行為なのだ。だが僕にとっては音楽を聴くのは何より大事な時間だ。
フリーター労組で知り合った人が、死んでしまえば全てごみになるのだから、身の回りの整理整頓をしようという主旨のブログを書いていたが、逆にいえば生きている限り、自分の身の回りの細々したものはごみではない、有意味なのではないだろうか。例えば3000枚超のCD。僕が死んだらどうなるのだろう、と思うこともままある。ごみになるのだろうか。そうかもしれない。しかし、そうならないで欲しいし、価値を分かる人に譲りたい気持ちもある。
思い出したのが、パリ時代のバド・パウエルの熱烈な崇拝者だった人が、火災でパウエルの思い出の品々を全て失い、落胆の余り自殺した、というエピソードである。パウエルとの思い出の品々は、ジャズに興味がない人にとってはまさにごみだろうが、その人にとっては宝物だったのである。それに殉じた。そこまでしなくても、と思うが、持つことが生きることを支える側面も大きいと思う。
そういえばフリーター労組への復帰願いを取り下げようか迷っている。今日取り下げなかったのは、短期間に復帰願いを出したりそれを撤回したり態度をころころ変えるのは相手に失礼だと思ったから。いやー一貫性がない人なんですよ自分。