躁鬱

躁の後には必ず鬱が来る。人生山あり谷あり。落ち込む時は底まで墜ちる。
昨日、激しく躁だった。今日、きつく辛い欝だった。職場でひたすら堪えた。苦しかった原因は分かっている。昨日、昂揚した気分で自分自身を天才だの超人だの、one and onlyだのと褒め上げたが、今日はではそのようなお偉い人が何故、浦安の倉庫で単純作業、肉体労働に従事しているのか、という根本的な問題に直面せざるを得なかったからだ。現実を直視するのは辛く苦しい。少なくとも、僕の場合は。
自分苦のエッセイは、惰民論と繋がっている、という直感がある。根本的で絶対的、無条件的な自己肯定こそがそこで問われているからだ。仮にベーシック・インカムなどで生活が保障されたら、僕は働かぬと思う。そこまで労働に価値を見出していない。生活のため、借金返済のためやむなく働いているという認識だ。旧ソ連社会主義リアリズムのように、労働や労働者を賛美する気持は僕には全然無い。僕は怠惰であり、そのことを別に悪いと思っていない。
自分苦という概念は、「自同律の不快」と言い換えることが出来ぬかどうか、自問してみた。が、自分が編み出したささやかな概念を、偉い戦後文学者の概念で置き換えずとも良いのではないか、と思う。というか、『死霊』をちと読んだくらいで、その文学者のことをよく知らぬのである。
もともと世界苦という概念を知っていた。誰の概念だか忘れたが、戦前の哲学徒の間で流行っていたという。それで、僕は、彼らが世界苦なら自分は自分苦だな、と思ったのである。ただそれだけのことである。
僕は、精神病院では、不安障害、不安神経症という診断である。境界性人格障害自己愛性人格障害等であるとは言われていない。だが、人格、パーソナリティーに問題は多々ありそうだ。冗談で、意味不明性人格障害などと言ってみたこともあったが。しかし本当に、意味不明である。フランス語の意味 sensという語には、方向という意味もあるが、僕は本当に、あらゆる意味で方向を見失い彷徨し咆哮している。「右も左も分からない」という冗談を口にしたいくらいだ。
ピッキングが始まって、自分がゾンビのようだと感じた。体が思うように動かない。こういう経験は多々あった。時間が解決してくれる、と信じて堪える。隣の棚をピックしているおばさんが、カカオを多く含んだチョコレートを食べさせてくれる。そして、休憩。僕は、驚くほど回復した。それからは、元気にピッキングを続けることができた。
チョコレート、このささやかな物。それが僕の一日を根本的に変えたのである。昨日飲んだ紅茶やコーヒーが僕を昂揚させたように、今日食べたチョコレートが僕を回復させた。人間は、自然法則の必然的で無慈悲な貫徹に支配されるか弱い存在だ、と思い知る。お茶なりコーヒーなりチョコレートなりに含まれる何らかの物質が脳に作用し、それで発奮したり元気になったりする、ただそれだけのことなのだ。それだけ不安定だということだ。
自然の一部としての自分自身。機械としての、マシーンとしての自分自身。こういう把握は、高校生の時に『アンチ・オイディプス』を読んだ時から一貫して持続している。自然過程としての自分。

ここで一旦送る。