攝津正のエッセイ

賃労働にて討死

賃労働にて討死。というのはありがちな現実である。それまで理想に燃えて活動していた活動家が賃労働で社会の現実に触れて幻滅し、転向する。肉体的な労苦が精神的な不調をももたらし、活動の維持を不可能にする。だから、賃労働にて討死。というのはありがちなのである。だから、それへの処方箋が必要だろう。働いても、それまでのペースを維持できるための何かが必要だ。それが何かは分からないが。でも世の中には、立派に働いてなお運動もやっているという人もゴマンといるのである。それはその人達の個人的資質に帰するべきなのかどうかは分からない。

働かないという選択

働かないという選択はあるのだろうか。だめ連宣言から松本哉の著書に至るまで、左翼オルタナ系は、働かずに生きるにはという問いを問うてきた。しかし、それは不可能なのではあるまいか。生活保護障害年金も無理なら、そしてましてやベーシック・インカムも無理なら、自営であれ賃労働であれ、働く以外無いのではあるまいか。

しかし、働いたらそこで討死。というケースが多々あるし、僕の場合もその一例なのであったりもする。そうならないためにはどうすればいいのだろうか。

NAM以後十年

NAM以後十年が経過し、時代が一巡りした。NAMは福祉主義を国家主義として否定し、自立(生産協同組合)を説いた。それが幻想として嘲笑されてきたし、僕もそうしてきたのだが、一巡してまたNAM的発想の必要性が出てきているのではないかと思う。転向の転向。というのは、生きるためには最低の金銭を得なければならないし、それを生活保護障害年金で得られない多くの人々は何らかの仕方で働かねばならないからである。自立というのは評判が悪い。偽りの理念、ネオリベ的だというのだ。誰かが自立への封じ込めなどとも語っていたのを覚えている。だが、それは必要なのではないだろうか。生きねばならぬ以上、金を得なければならず、そのために何かしなければならない。その条件は今のところ変わっていないように思える。