カント理解できず

正確には理解を拒否すると言ったほうがいい。『道徳形而上学の基礎づけ』、何度読んだか知れぬが、反感しか覚えぬ。私は骨の髄まで経験論者であり、経験によらずに「純粋」に道徳の原理を演繹しようという姿勢には疑問を感じる。
満員電車内で大音量でCDを聴いてはならぬのは何故か。混雑しているから音漏れが近くの人に迷惑だからである。混んだ駅のホームで座り込んでいてはならぬのは何故か。通る人の邪魔になるからである。全て経験的であり、経験内で説明がつく。
結局、私にはただ一つしか興味がある「哲学的問題」がないのだと気付く。それは、私の今感じている意識は「今ここ」にあるが、それの起源を辿っていくと不明瞭な記憶に逢着するし、未来を思えばいつか死が来る必然性を漠然と感じている。つまり生物としての私は、いつか生まれ、いつか死ぬというだけの事実性なのだが、それがどうしても飲み込めぬ。私が死ねば、或いは脳が破壊されれば、一切のこの感覚は消えるのだ、と考えてみても、私は「無」を表象することが出来ぬ。この無とは、仏教的な意味でも、西田幾多郎の哲学の意味でも、ハイデガー的な意味でもなく、端的でごくありふれた意味での無である。無神論者としては、死ねば虚無に帰っていくと考えざるを得ぬが、その虚無を理解出来ぬ。人生は短く、私が存在しなかった過去の膨大な厚みがあり、私が消滅した後の世界の豊穣さがあるが、私にはそれが理解出来ぬ。私が見、聞き、嗅ぎ、味わい、触れる一切が消えるとはどういう事態なのだろうか。子どもの頃から漠然とそのような疑問を抱いていた。