賃労働二十日目

さて、攝津正である。
スローワークも本日で四週間目を無事終えることができた。月曜日、火曜日と働けば一ヶ月継続達成である。素直にそのことを喜びたい。
今日は一日辛かった。午前中は調子が良かったものの、午後から酒ボールに回されて先日もやった缶チューハイを6本袋詰めにして段ボールに積む作業がキツかった。身体的にキツく、精神的にキビしかった。暗澹たる情念と動かぬ身体…。しかし、堪えてこれを越えれば次があるかもしれぬと自分に言い聞かせ、作業を続けた。
今日もとにかく一所懸命働き、無我夢中で一日を終えた。今肉体的にも精神的にも疲弊し、帰りの電車内では読書も音楽鑑賞も出来なかったほどである。7時間労働(9:00-17:00)だったが、足腰が痛い。ラジオは今日は22時からの予定なので、それまで体を休めようと思う。
ベンサムのことを考えていた。彼のサンクションという概念。制裁とかいう意味合いだが、ベンサムは各種のサンクションを分類している。何故それを考えたかといえば、私が今辛い肉体労働をせねばならぬのも、カードでCDを買い過ぎ借金を作ったということに対するサンクションなのではないか、と考えたからである。
ベンサムが哲学者としてどうかという以上に、彼はかなり変人だったと伝えられる。それはベンサムに関するもろもろの本が示す通りである。恐らく、長い間ベンサムの名は忘れられていた。それが一般に知られるようになったのは、ミシェル・フーコーが『監視することと処罰すること 監獄の誕生』でパノプティコン(一望監視装置)の考案者としてベンサムの名を挙げて以来ではないかと思う。パノプティコンは、部分的にそのような建築がなされた監獄がある模様だが、一般には広まらなかった。が、フーコーは、スペクタクル的な身体刑から規律・訓練(ディシプリーヌ)の体制であるところの監視へと刑罰の重点が移行したことの隠喩としてパノプティコンを挙げているのであろう。
話は飛ぶが、私はフーコーの『狂気の歴史』を支持できない。ドゥルーズ=ガタリの『資本主義と精神分裂病』を支持できないのと同じ理由である。フーコーは精神医療の啓蒙主義的・人間主義的改革に疑義を唱え、狂気体験の消滅を予言する。それは今日、例えば木村敏のいう「分裂症の軽症化」などとして現実のものになりつつあるが、精神医療が合理化され人間化され、例えば二十世紀における薬物療法の長足の進歩などによって統合失調症が「治らぬ病」ではなくなったということは端的に良いことだと思う。狂気体験がどうの、といってそのことを否定すべきではない。
ミシェル・フーコーは、確か『哲学の舞台』だったか、インタビューで、精神病患者にとっては自分の受けている治療法が有効なものかどうかは重要な問いだろうが、歴史家である自分にとってはそうではないという意味のことを述べているが、まさに患者=受苦者の当事者の立場からすれば、どうすれば楽になれるかということが第一義的に重要なのである。
よく言われることだが、フーコーは、──自分では事前に参照はしていなかったというが──よく言われるようにアドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』の論理枠組みと類似した枠組みで議論する場合が多い。近代西欧の啓蒙的理性の暗部を暴くといった手法である。確かに、理性万歳、啓蒙万歳、というわけにはいかぬだろうが、近代を否定するのもいかがなものかと思う。最近ネグリが近代民主主義を全否定する本を出したらしく話題だが(私は未読だが)、近代を否定してしまうことは、その成果である人権なり何なりをも犠牲にすることでもある。というような話をすると、「新哲学者」派みたいで自分で厭になるのであるが(笑)。