賃労働十九日目

さて、攝津正である。
今朝は早起きだった。朝5時過ぎには眼が覚めていた。一階のCafe LETSにてパソコンをやりつつ音楽を聴く。そして今日は普段より早めに家を出た。新京成線はすいていたが、武蔵野線はやはり激しく混んでいた。
今日は荷物を引っ張る作業、段ボールを切る作業、氷をシッパーに封入する作業、オリコンを作る作業などをやった。上司のTさんから突然、今日は仕事がそんなにないから攝津君も4時あがりでいいよ、と言われ、6時間労働で16:00帰宅ということに。
行きの電車内ではフォイエルバッハを読んでいたが、何の感興も呼び起こされない。『将来の哲学の根本命題』(岩波文庫)というやつだが、彼が力説するところの、キリスト教の神、キリストとは人間理性の諸特徴が投影されたものに過ぎぬという主張に何の興味も覚えない。私はキリスト教徒でもなんでもないから。

将来の哲学の根本命題―他二篇 (岩波文庫 青 633-3)

将来の哲学の根本命題―他二篇 (岩波文庫 青 633-3)

ニーチェが面白いのに、フォイエルバッハが詰まらぬのは何故かと考えてみた。私なりに考えついたのは、フォイエルバッハは結局、キリスト教を「人間」的に理解し是認しているのに対し、ニーチェはもろもろの価値の評価と転倒を企てている。そして、ニーチェのほうが視点が広く考察も深い。ニーチェの主敵はプラトニズムだが、その通俗的形態としてのキリスト教を徹底批判している。そのような過激さがニーチェの魅力である。そして、フォイエルバッハと違い、ニーチェの場合キリスト教徒・キリスト者であるかどうかを問わず、魅力がある。それは彼が、人間一般の存在や認識のもろもろの条件を具体的に問うているからである。西洋人ならぬ東洋人である私が読んでもニーチェは面白い。
帰りの電車内では、ウィリアム・ジェイムズ著作集第二巻『信ずる意志』を読んでいた。何度も繰り返し読む。ニーチェ箴言プラグマティズム的認識も含むが、プラグマティスト達の著述にはニーチェ的なる価値の評価なり転倒はまるで見られぬ。彼らは常識的である。良くも悪くも。

日本においては、著作家なり潮流が評価されるのに、紹介者なり翻訳者なりで評価が決まってしまう、ということがある。例えば、確か岩波文庫版のジョン・デューイ『哲学の改造』は転向者として悪名高い清水幾太郎が訳している。また、ウィリアム・ジェイムズ著作集の最終巻である『哲学の諸問題』は上山春平が訳している。だから、左翼活動家がプラグマティズムを胡散臭く感じるのには根拠があるわけだ。その反対者というか、改良主義者なりが翻訳しているのだから。

哲学の改造 (岩波文庫 青 652-1)

哲学の改造 (岩波文庫 青 652-1)

ところで話を労働のことに戻せば、今日は調子が悪いわけではなかったが、朝から午後に掛けて労働が辛く感じられた。時間が経つのが遅く感じられる。氷の封入でヘトヘトに疲れて、ふと仕事場の時計を見たらまだ14:20!まだ休憩まで40分もある…と絶望的な気持になった。が、終わらぬかの如くに思える労働もいつかは必ず終わる、と自分自身に言い聞かせる。そして尻上がりに調子を上げた。労働を終える頃は作業が楽しくなっていたほどだ。どんなに単純でつまらぬ作業であれ、続けるうちに何か工夫なりコツなりを会得し、それを遂行するのに興味なり面白味を見出せるものである。そんなことを学んだ。