賃労働十八日目

さて、攝津正である。
今日も倉庫内作業の肉体労働を七時間こなしてきた。契約では、八時間働くことになっているが、五時で帰っていいと言われることが多く、七時間の場合が多い。が、七時間でもう肉体は限界だ。五時で帰宅していいと言われると正直安堵する。今日こなしたのは、朝が氷作りの作業やカッターで段ボールを切る作業、午後が氷を封入する作業や段ボールを切る作業、オリコンを作る作業などであった。
帰りの電車の中では音楽を聴きながらウィリアム・ジェイムズ著作集第一巻『心理学について──教師と学生に語る──』(日本教文社)を隅から隅まで読み返していた。感想は、ウィリアム・ジェイムズは自由意志の存在を主張したいのだが、どうすればそれを正当化できるか分からず、自分は自由に自分が自由であると信じる、と言い放って終わっている、ということである。彼は曖昧で中途半端だ。だが、自由意志の問題は、哲学の中で解決されたことがかつてない。古代に遡れば、「運命」を主張したストア学派とそれを嫌悪し原子の落下の僅かな偏り(クリナーメン)に人間の自由の根拠を見ようとしたエピクロス学派の対立がある。近世においては、デカルト主意主義的な哲学と、それを全面的に否定するスピノザ主義の対立がある。イマニュエル・カントの批判哲学の二律背反(アンチノミー)の議論は、自由か必然かという問題を解消すると称しているが、果たして彼の意図した通りになっているかどうかは疑問である。二十世紀においては、サルトル実存主義レヴィ=ストロースらの構造主義の対立が顕著である。
要するに、哲学は、自由があるかないかという問いを解決したことがないのである。
私自身は、自由意志を信じる根拠は甚だ曖昧だと考える。例えば、ルイ・アルチュセールは、『マルクスのために』や『資本論を読む』においては構造的因果性を主張し、重層的決定(シュルデテルミナシオン)という概念を案出し、スピノザ主義に近い立場を採った。が、精神病による妻殺害後の晩年の哲学は、古代唯物論に遡り、「偶然の唯物論」を模索した。しかし私は、アルチュセールのその定式化は曖昧だし、成功していないと思う。
同様のことはミシェル・フーコーにもいえる。権力論の頃のミシェル・フーコー、具体的には『監視することと処罰すること 監獄の誕生』から『性の歴史第一巻 知への意志』までの彼は、自由、自発性、主体性(主観性)に著しく否定的であった。私は高校生の頃彼が亡くなった直後に編まれたインタビュー集を愛読していたが、今でも記憶に残っているのは、彼が、権力諸関係の存するところには必ず「抵抗」の契機が存する、という彼の公理を述べ、そして自発性を云々するなら、誰か人を縛り上げて監禁し何を望むか訊ねてみれば「解放してほしい」と述べるということくらいしかないだろうと断言しているくだりである。勿論そのような必然主義的な立場は隘路であり、袋小路に陥る。『知への意志』の後、ミシェル・フーコーは長い沈黙を余儀なくされた。そして出てきたのが、「自己」というテーマ系であるが、これもアルチュセール同様、古代への遡行と共になされ、そしてその意味は曖昧である。フーコーの哲学的友人であるジル・ドゥルーズはその著書『フーコー』において、晩年のフーコー、具体的には『性の歴史第二巻 快楽の活用』と『性の歴史第三巻 自己への配慮』を「襞(折り目)」 pliという概念で読み解こうとした。それは簡単にいえば、権力諸関係の只中における極めて複雑な重層的決定の最中にあって、ぎりぎりのところで逸れとか偏りとしての自由を見出そうとした試みだと言っていい。が、私は、晩年のフーコーの試みは挫折していると考える。彼は「自己」というが、その自己なるものが経験的自己であるのか超越論的自己であるのか判然としない。いずれにせよ、晩年の彼の歴史叙述は極めて退屈であり、かつての輝きを失っている。
さて、話は飛ぶが、構造主義とは哲学ではなく科学の運動であり、しかも失敗し挫折した運動である。それは、新カント派の自然科学と精神科学の区別や、フッサール現象学の精密科学と厳密なる学の区別を全く顧慮せず、あらゆる科学(学問)の基礎づけが数学的になし得ると思い込んだ傲慢からきている。例えばレヴィ=ストロースは、未開人の神話や婚姻体系に現代数学群論的構造を見出し、自分はルソー的に彼らを尊重していると思い込んでいるのであるが、しかるに彼ら未開人はそのような数学的構造など微塵も意識していないのである。ルソー的であるかはどうかとして、その態度に大いに疑問があるのは当然で、ジャック・デリダが『グラマトロジーについて』でレヴィ=ストロースを主要な標的としたのには理由がある。そして、ジャック・ラカンは数学素(マテーム)によって精神分析を科学たらしめようとしたが、その試みは失敗している。ソーカルらが『知の欺瞞』で指摘している通りである。よく構造主義とは超越論的主体抜きのカント主義だなどと言われるが、それは「円い四角」のような矛盾した言明である。そんなカント主義などない。
というようなことを帰りの電車内で考えた。