賃労働十七日目

さて、攝津正である。
賃労働十七日目となる今日火曜日、無事労働を終え帰宅した。何事もなかったことをまずは喜びたい。
普段は私は、菓子ボールというセクションに配置されているのであるが、今日の午後は酒ボールというセクションでの業務を命じられた。業務内容は単純な肉体労働。缶チューハイを6本袋詰めにして、段ボールに入れるという作業である。
さて、スローワーク、順調なのであるが、休憩時間(昼食等)の休憩室の雰囲気が素晴らしく楽しい。所長さんもパートさんの間に入ってきて、冗談を言ったり、会話を楽しむ。とてもいい職場だと思う。
今日も一所懸命全力を尽くして労働していたので、他のことを考える余裕はなかったが、送迎バスの中で、これは新たなるフォーディズムではないか、ということを考えていた。周知のようにフォードは、自社で働く労働者がフォードの自動車を購入できるようにするために労働賃金を上げた。われわれは、コンビニで販売する商品そのものを生産しているわけではないが、それの物流なりに携わる仕事をしている。そして消費者としては、コンビニで買い物などをしているわけである。これは、縮小再生産?されたフォーディズムではないだろうか、というようなことを考えていた。
帰りの電車内では、ウィリアム・ジェイムズ著作集の第2巻に没頭していた。最近私は、左翼的或いは共産主義的な傾向に反感を感じており、左翼或いはマルクス主義の伝統が軽蔑してきた著者らを積極的に読みたいと思っている。例えば、ウィリアム・ジェイムズフォイエルバッハである。プラグマティズムについては、私には大学時代いやな思い出がある。友人の友人がノンセクト左翼学生だったのだが、何を読んでいるかと訊ねられプラグマティズムの哲学の本を読んでいると答えたら、彼から大いに嘲笑されたのだ。つまり、ブルジョア哲学、反動に過ぎぬというわけだろう。だが、私は彼・彼女らのそういう単純な割り切り方が、結局思想を貧しくすると当時も今も考えている。
マルクス主義英米思想が仲が悪いのには根拠がある。かつて私は、エッセイ集のようなサイトを関本洋司・鈴木健太郎と共に立ち上げ、多くの人にエッセイ寄稿を依頼した。その中に、元NAM代表で左翼運動の大物である田中正治もいたのだが、送られてきた彼の原稿を読み、私有財産(私的所有)を擁護した廉でジョン・ロックが糾弾されていたことに興味を惹かれた。そのような理由でロックを非難するなら、同様にウィリアム・ジェイムズも、そして、存在=所有、在るということとは持つということである、と考えた十九世紀の多くの哲学者達(例えば、ドゥルーズも頻繁に引用するガブリエル・タルド)も非難されねばならぬと思う。昨日は、ウィリアム・ジェイムズ著作集の第1巻を読んでいたのだが、そこで興味を惹かれたのが、ジェイムズが私有財産(私的所有)や競争を擁護していたことだ。例えば最近の日本の教育界で、徒競走で順番をつけないなどのことが行われていると聞くが、もしウィリアム・ジェイムズ現代日本に生きていたとすれば、彼はそのような試みに反対しただろう。彼は、教育において競争が果たすべき役割を強調している。というか、私はウィリアム・ジェイムズを読みながら、今時のネオリベな人が言いそうなことを言っているなあ、と感じたのである。それも無理はない。ネオリベは、或る面では新しい現象であるが、他の面は、十九世紀流の資本主義なり思想の復活でもあるからである。(社会ダーウィニズム等)。