賃労働九日目

火曜日から土曜日まで働くとすると、先週も金曜日に体調を崩したが、金曜日辺りが「魔の金曜日」になると思う。つまり、その頃に体力が限界に達する。今日も一日辛く、労働が六時間を超えた辺りで体力と気力の限界を感じ、へろへろになった。が、一日無事終えた。そのことを素直に喜びたい。

何度も書いたが、会社は、スローワークや脱ニート支援などで何度も新聞に取り上げられ、また障害者雇用などにも積極的なのであるが、労働システムがよく考えられていると思う。例えば、一日の休憩は75分間である。それを最初に聞いた時、なんで75分なのだろう、と不思議だった。が、働き始めて分かった。昼、一時間の昼食の休憩があるとしても、それから六時間働き続けるのは極めて苦痛である。だから、15:45から16:00まで15分間の休憩を挟むのだ。私は、これはいい制度だと思う。体力的にも無理なくやれる。明日もう一日頑張れば、二週間何事もなく継続できたことになる。小さな達成ではあるが、まずはそれを目指したい。そして、それができたら、次は三週間継続を目指す。

ところで、ここ数日気になっているのが、ジル・ドゥルーズ『差異と反復』(財津理訳、河出書房新社)の謎めいたくだりである。まず、私には昔から、「暗き先触れ」という概念がよく分からない。それから、次のようなくだりの意味がどうしても分からない。

しかし、強度量の倫理には、二つの原理しかない──すなわち、最低のものすら肯定するということ、(過度に)繰り広げられないということ。たとえば、子どもが、知っているかぎりの汚い言葉をすべて口にしたとき、わたしたちは、言わば父親になってその子どもを咎めるはずである。それというのも、たんにその行為が悪かったからというだけではなく、その子どもがすべてを一回で言い尽したからであり、またその子どもが、永遠回帰の精妙なる巻き込まれた材料のために、何ひとつ何の剰余も残さなかったからである。(p365)

差異と反復

差異と反復

それと、ウィリアム・ジェイムズフッサールベルクソン西田幾多郎サルトルを読み返したい衝動に駆られる。ジェイムズなら、『根本的経験論』に入っている「意識は実在するか」という論文、サルトルなら『哲学論文集』に入っている「自我の超越」だ。

根本的経験論 (イデー選書)

根本的経験論 (イデー選書)

自我の超越 情動論粗描

自我の超越 情動論粗描

今日は、電車の中では、マイルス・デイビス『フォア&モア』、マッコイ・タイナー『ルーツ(ジャズ・ルーツ)』、アート・ペッパー『モダン・アート』を聴いたが、いずれも素晴らしい演奏だった。

ルーツ / マッコイ・タイナー・ソロ

ルーツ / マッコイ・タイナー・ソロ

モダン・アート

モダン・アート