欝多氏脳 その7

二階の自室でこれを打っている。横になっていたが落ち着かず、起きてきた。俺が考えていたのは、俺の人生の転機が14歳、ホロヴィッツとの出会いであったということだ。ホロヴィッツの音楽は俺を魅了し、俺はピアニストになりたいと思ったが、音楽教師らに話すと一笑に付された。以来20年間、俺は「死にたい」という気持を抱えたまま、虚しく生きてきた。その場その場で、例えばQ-NAMがあったり、大学院があったりしたが、基本「死にたい人」であるというのは変わらない。俺が死なないのは、確実に、そして人に迷惑を掛けずに死ぬ方法が見当たらないからでしかなく、自分の生存に積極的な意義を見出しているわけでは全くない。繰り返し語っているように、俺は自分の生存はナンセンスであり、全く無価値だと思っている。俺のように、何にもなれないどうしようもない人は結構いると思う。それで死んだり生きたりしているんだと思うが、ともかくも、生きていても苦痛だし、義務を果たす気もさらさらない。無責任と謗られても平気。大体俺くらい誠実にQ-NAMの総括をやった奴いるか?いないだろ。これ以上、果たすべきどんな責任があるってんだ。んなもんないよ。ともかくも、俺は何の意味も価値もない下らないつまらない生を無理やりに生きてきた。家族を悲しませたくないからとか、他人に迷惑を掛けるからなどの消極的で否定的な理由で厭々生きてきた。しかし、我慢ももう限界なのではないかと思う。もう精神科医にもキレている。もう会いたくもない。同情するなら金をくれ!である。家なき子である(笑)。いや、笑ってる場合じゃないんだが。ともかくも、俺は生きるのが面倒くさいのである。他者にとっては、この社会に適応するのは比較的容易かもしれないが、俺にとっては激しく無理である。それに適応したいという気持が最初から無い。俺は他人に興味ない。何もしたくないし、何もしていない。激情は他者を傷つける方向に向かうし、俺は実際多くの人を傷つけ、時には死に追いやってきた(京都の大学院生Yさんの場合)。俺の激しい言葉は時に人を死に追いやってきた。しかし、それに関して、俺は責任も取りようがないし、どうしようもないのである。加害的というなら、俺の生存そのものが加害的であり、迷惑だというしかないだろう。生きていること=迷惑。俺は迷惑な存在だ。他人に迷惑を掛け、不快な思いをさせたり、傷つけたりするが、それ以外に生きる方法が無いのである。生産的なことをしたいと思うが、まるでできない。毎日パソコンとピアノのキーボードを打つが、それすら意味なし。まるで無意味であり、無価値である。俺は何の技能も資格もなく、生きる情熱すらなく、性欲もない。最近性に嫌悪を感じるようになってきた。中学生の頃は同性愛的な熱情があったが、今はそれもない。もうどうでもいい。恋愛も性交も、成功も、どうでもいいのである。生きること=どうでもいい。無関心。この苦しみを他者に理解してもらおうとは思わないし、他人には人それぞれの生き方があるのだろう。生きることがごく自然であるような人も多いのだろう。だが俺にとっては生きることは不自然で辛いことだった。生きづらさ系は労働運動系に行ってもまるで解消されず、借金は増える一方、なのに無意味な消費に溺れ、買ったCDもろくに聴かず、音楽家にもなれず、仕事はなく、する気もない。とにかく生きているのは暇潰しというか、他者に役立ちたい善意は寸毫もなく、単に生きているだけで、死にたい気持に堪え、ぐっとこらえ、単に生きている。だから何?と言われそうだが端的に事実を報告しているだけである。俺は意味なく価値なくやおい人生を生きているのである。