以下の「労働者の歌」(精神病院で書かれた)が面白い。

http://anarkia.blog.shinobi.jp/Entry/114/

労働者の歌


後藤謙太郎


労働者は労働□故に叛×す、
理論を止めろ、
この現実を見ろ
血は血を、
□□□□□□□□□□□、
戦闘労働者の□□□□□□□
無産者ぞ、わけて戦闘労働者ぞ
怯ゆるものか、過激法案
尊ぶはたゞ労働者の行動ぞ、
インテレゲンチヤの理論を葬れ
葬れよ、インテレゲンチヤを葬れよ、
わけて日本のインテレゲンチヤを!
ラフエルを葬れ、靴工を尊べ、
社会は工場ぞ、大なる工場ぞ
暴力、暴力、暴力なるかな、
彼等に□□□暴力は正義ぞ
□□□□□□□あらず、どん底の、
俺の生れし労働階級
黙々と鉄窓の下に坐する夜の、
その感激に今宵も生かしめ
かゝる日ぞ、□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□


   (巣鴨精神病院にて、二、二〇夜)
   『労働者』1923.6.7 掲載

面白いと言っておきながら何だが、「インテレゲンチヤの理論を葬れ/葬れよ、インテレゲンチヤを葬れよ」というのは如何なものかと思う。何らかの知識なり知性は必要である。ただただ行動なり暴力なりに特化していく時、何か間違いが生じるのではないか。インテリや亜インテリの知識・理論だけが知識・理論ではない。プレカリアートには自前の、DIYの知識・知性・理論・技能……があるはずで、それの百科全書を作るべきなのだ。RAM CATALOGの理想の意義はまだ消えていない。松本哉の新刊も、プレカリ百科全書の一環をなすべき書物であろうと推察する。